「商工とやま」平成18年11月号 特集 常願寺川砂防100周年 富山の安心を、いまも守りつづける砂防事業 |
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■「知られざるもうひとつの立山」 毎年100万人を超える観光客が訪れる立山黒部アルペンルート。「その弥陀ケ原のすぐ南側に、知られざるもうひとつの立山があります。それは、東西約6・5q、南北約4・5qの巨大なくぼ地「立山カルデラ」です。カルデラとは、ポルトガル語で「大鍋」の意味。周囲は切り立った断崖となっていて、このカルデラを取りまく脆い岩肌がしばしば大規模な崩落を起こしてきました。 ■災害を起こしやすい自然条件 立山カルデラは、10万年以上前に活動した弥陀ケ原火山などが、地震や大雨などにより土砂が大量に崩れて形成された侵食カルデラです。そして、カルデラ周辺には幾つもの活断層が走り、地下深くまで非常に脆い地質となっています。また、カルデラ一帯の降水量は非常に多く、西よりの風で悪天候が続けば月に1000oに達することもあります(観測期間は7〜9月のみ)。そして、日本でも有数の急流河川である常願寺川は、標高差3000mを一気に流れるため、土砂が下流に運ばれやすく、もともと災害の起こりやすい自然条件が重なっています。 ■安政5年の大地震 なかでも、大きな被害をもたらしたのは、安政5年(1858)4月9日に発生した、マグニチュード7前後とされる大地震です。これは、跡津川断層の活動で起きた直下型の地震です。この地震によって、立山カルデラの南稜線にそびえていた大鳶山・小鳶山は崩れ落ち、約4億m3もの土砂が谷を埋め尽くしました。崩れ落ちた土砂は川をせき止め、上流には湖のような大きな水たまりがいくつもできました。そして、4月22日に再び起こった地震で、川をせき止めていた土砂が崩れ、大土石流となって下流に多数の被害をもたらしました。 その後、6月7日には更に大規模な土石流が発生。常願寺川の堤防を一気に破壊し、富山平野に押し寄せました。2度の土石流で、140人の命が失われ、約9000人の負傷者を出し、多くの家屋が被害を受けたのです。(日付は新暦) ■暴れ常願寺 安政5年の災害後、立山カルデラから長年にわたり大量の土砂が流入し、常願寺川は、周囲の土地よりも川底が高くなる天井川となりました。そのため、大雨のたびに大きな災害をもたらす日本一の「暴れ常願寺」と呼ばれるようになったのです。 いまでも、立山カルデラには約2億m3の土砂が貯まっていて(東京ドーム約160杯分)、この土砂がすべて富山平野に流れ出すと、約2mの厚さで埋め尽くされてしまうと言われています。 ■石川県から分県した富山県 廃藩置県の後、国の方針で進められた府県統廃合により、明治9年に、当時新川県と呼ばれていた富山は、隣の石川県と合併し「石川県」となりました。しかし、道路の改修を主に考える石川側と、治水に重点を置く富山側とで、土木費の分配をめぐる利害の対立が、合併以来の懸案となっていました。 そこで、同15年、入善町生まれの米澤紋三郎議員らが、水害に苦しめられてきた越中の人々のため、石川県からの分県を国に嘆願。翌年の明治16年に石川県から分県して、富山県が誕生したのです。 ■ヨハニス・デ・レイケによる常願寺川大改修 常願寺川の土石流被害は明治以後も続き、政府は明治24年(1891)に、オランダ人技師、ヨハニス・デ・レイケを富山県に派遣します。水源部を訪れたデ・レイケは、崩壊のあまりの巨大さに「土石流の被害から流域を守るには、山全体を銅板で覆うほかない」と言ったとも伝えられています。しかし、当時の技術力、経済力では砂防工事を断念するしかありませんでした。 そこで、デ・レイケは、最下流で東の白岩川に注ぎ込んでいた常願寺川の流れを、海まで真っ直ぐに向かうよう分流させたほか、農業用水の合口化などの大改修工事を行ないます。しかし、改修後も常願寺川は毎年のように氾濫を続け、同29年の大洪水では、富山の市街地の半分が泥で埋まってしまったのです。 ■富山県による砂防工事のはじまり 第11代富山県知事、李家隆介は、県の歳出の半分を占めた土木費の殆どを費やしても氾濫がなくならない常願寺川を視察し、水源部の砂防以外に、根本的な治水はないと決断。そして、今からちょうど100年前の明治39年(1906)7月に、県による砂防工事が国の補助を受けて始まったのです。 ■県から国の直轄工事へ しかし、当時の石積みのえん堤は脆く、大正8年(1919)と、同11年の豪雨により壊滅状態となります。この災害をきっかけに、国の直轄事業を望む声は県内でいっそう高まりました。当時は砂防法により、工事区域が他府県にまたがる場合でなければ、国で工事を行なうことはできませんでした。しかし、同12年の関東大震災を契機に翌年、砂防法が改正され、難工事であれば、一県でも国が工事を行えるようになったのです。そして、大正15年(1926)5月、ついに、常願寺川砂防は、国に引き継がれることになったのです。 ■文化勲章受章の赤木正雄 直ぐに立山砂防工事事務所が設立され、ヨーロッパで近代砂防技術を学んだ赤木正雄が、初代所長に就任しました。赤木は、土石流に対抗できるコンクリートを採用した白岩砂防えん堤を自ら設計しました。まず最初に、道路やトロッコ軌道の整備が進められ、昭和6年(1931)に砂防えん堤の工事が始まりました。治水の根本は「砂防」にあると考えた赤木は、日本の近代砂防の発展に大きく貢献し、後に文化勲章を受章し、「砂防の父」と呼ばれました。 同12年に日本一の貯砂量を誇る本宮砂防えん堤が完成。同14年には日本一の高さを誇る白岩砂防えん堤が完成しました。どちらも、国の登録有形文化財となっています。戦争による中断はありましたが、上流域・下流域で精力的に砂防事業が進められました。その結果、常願寺川の氾濫は大きく減り、川は安定していきました。最近では、平成10年(1988)の豪雨でもわずかな被害ですみ、長年にわたって築かれてきた砂防施設の成果が証明されています。 私たちの生命、暮らしの安全はこれらの砂防施設によって守られているのです。 ■予期せぬ自然災害に備える 立山カルデラでは、数多くの砂防施設が建設され、土砂の移動がなくなることにより、カルデラ内は徐々に緑に覆われた風景に変わろうとしています。しかし、土石流の危険が完全に去ったわけではありません。立山砂防事務所の渡正昭所長は、予期せぬ自然災害への備えの大切さについて語ります。 「富山でも、今後、ゲリラ豪雨や大地震による大規模な土石流発生の可能性が全く無いとは言えません。立山砂防事務所では、既存施設のメンテナンスや構造物を造る事業だけでなく、近年では、ライブカメラや光ケーブルの設置など、下流域への素早い情報提供のための整備も進めています。危機管理の上でも、防災の拠点としても、当事務所は大切な役割を担っているのです。でも、私たちがどれだけハード面の整備を進めたとしても、想定外の災害が起こる可能性があります。やはり、富山に住む皆さん一人ひとりが、日頃から高い防災意識を持つことが何より重要です。中越地震のような災害の危険性は、富山にもあることを認識していただきたいのです」。 県の砂防課でも、もっと身近な土砂災害に備えるために、ハザードマップをインターネットで公表しています。自分の住んでいる地域の危険箇所や避難場所などを確認することができますので、ぜひ、一度ご覧下さい。 ■立山砂防 砂防情報センター ■富山県 砂防課 ■立山カルデラ砂防博物館と砂防体験学習会 平成10年に開館した立山カルデラ砂防博物館。「屋内ゾーン」では、展示や映像などを通して立山カルデラの自然と砂防の歴史などについて知ることができます。そして、ユニークなのが「野外ゾーン」です。実際の立山カルデラや常願寺川流域そのものが、フィールドミュージアムとして位置付けられています。 立山カルデラを訪れる体験学習会が毎年6月下旬から10月中旬まで開催され人気となっています。トロッコやバスを利用する個人や団体向けの4つのコースがあり、専門の解説員の案内で、立山カルデラを実際に自分の目で見て、体験することができます。 同博物館の高野靖彦主任は「砂防工事が、いかに大変な場所で行なわれているかを体感してもらうことで、立山カルデラへの理解と防災への意識を深めてもらいたい」と話して下さいました。 ■世界に誇れる「SABO」 今年5月、トロッコが走る立山工事専用軌道敷が、国の登録記念物(遺跡)に、全国で初めて登録されました。また、日本一の暴れ川を制したこの立山カルデラには、日本の砂防技術の粋を集めた施設が多く「砂防のメッカ」とも呼ばれています。ここで学んだ技術者が日本全国で活躍しているのです。そして、その高い砂防技術によって「SABO」は世界共通語ともなっています。立山砂防は、まさに世界に誇れる文化資産とも言えるでしょう。 当所では、市民参加による「富山市価値創造プロジェクト」を推進しています。富山の価値や価値資源を再発見、再認識し、その情報発信活動など様々な事業に取り組んでいます。 今回ご紹介した砂防事業には、まだまだ一般に知られていない多くの物語があります。砂防の歴史と現状を知ることで、防災意識を高めることはもちろん、その存在価値を再発見していただければと思います。 今年の見学期間はすでに終了していますが、来年はぜひ本物の立山カルデラへ、出掛けてみませんか。 (写真提供/立山カルデラ砂防博物館)
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