「商工とやま」平成19年5月号
特集 薬都・とやま
300年以上の歴史と価値を再発見しよう!
其の一 富山売薬のはじまりと発展
富山の売薬商人たちは全国の津々浦々まで行商に出掛け、先用後利という独自の商法で、日本各地の人々の暮らしに健康と安心をもたらしました。300年以上の伝統を誇る富山の薬。富山売薬は近代の富山の産業基盤の大きな礎を築き、薬業は現在に至るまで富山の重要な産業として発展してきました。そして、21世紀の私たちの暮らしとも、実に深いかかわりを持っています。
今号から2回にわたって、薬都・とやまを築いた富山売薬の歴史を振り返り、その大いなる遺産と価値について改めて考えてみたいと思います。
■富山売薬の起源とは
富山売薬の始まりについては正確にはわかっていませんが、最も古い富山の薬の起源を語る資料として残っているのが、松井屋源右衛門が宝暦9年(1759)に富山藩に提出した『富山反魂丹旧記』(富山市売薬資料館蔵)です。富山の薬の代名詞である反魂丹について、この由緒書には次のように記されています。
「長崎生まれの備前(岡山)の医師、万代常閑という人が、反魂丹の製法を所持していた。それが富山二代藩主前田正甫公(1649〜1706)の耳に入り、その薬方(薬の処方や調剤方法)を取り寄せ、富山藩士の日比野小兵衛という者にそれを書き取らせ預けた。2・3年経ち、小兵衛がこの薬方を藩主に献上したいと願い出たところ、城下の薬種商売人へ薬方を伝えよと仰せられた。よって、松井屋源右衛門の先祖に反魂丹の薬方を伝授された。その後、この反魂丹を万人のために売り広める許可が出され、反魂丹の看板を店に掲げ富山で初めて販売し始めたので、松井屋が反魂丹の元祖である。(後略)」
これは、正甫公が亡くなってから約50年後に書かれた由緒書です。
■常閑の遺徳をたたえる
この他にも反魂丹の由緒については各種の伝説が残っていて、万代常閑が実際に富山に来て、正甫公に反魂丹を献上したのがきっかけとする説もあります。いずれにしても共通しているのは、万代常閑の処方に基づくという点です。梅沢町の妙国寺で嘉永3年(1850)に書かれた由緒書にも万代常閑の名が登場し、富山の売薬商人が常閑亡きあと、その遺骨を分骨してもらい受け、帰国後、妙国寺に尊像をまつり、墓を築いたとも書かれています。なお、万代家の子孫は、実際に現在も岡山に在住とのことです。
■正甫公と反魂丹
反魂丹はもともとは富山だけでなく、表記の異なる「返魂丹」などとして各地で扱われていました。しかし、富山売薬が江戸中期に販路を全国へ拡大し反魂丹が定着していったことで、富山売薬の代名詞となっていきます。有名な話として、富山藩主の正甫公が江戸城に登城した際、城中で急に腹痛を起こした大名に反魂丹を与えたところたちまちに治り、それを見ていた諸大名はその効能に驚いて自藩の領内への販売を依頼し、そこから富山の売薬が全国に広がっていったという由来があります。
江戸期の文書などには、富山売薬商人のことを「反魂丹売り」「反魂丹もの」などと呼び、得意先の商売範囲を「反魂丹場所」と呼んだと記されています。また、売薬という商売そのものを「反魂丹商売」と呼んでいたようです。
■反魂丹は万能薬
現在では反魂丹は主に腹薬として販売されていますが、江戸時代の反魂丹は万能薬で、多くの薬種を含有していました。輸入ものをはじめ、23種類の薬種を含んでいたものもありました。当時、薬の製造には特に資格はなく、それぞれの薬種商や売薬商人が自ら薬を製造していました。一口に反魂丹といっても、様々な製法があり、使用する薬種や分量も違っていた、といいます。しかし、薬種の主なものは江戸や大坂から、富山藩の仲買人を通して仕入れられ、藩は薬種の品質を吟味し統制していました。厳選された原料を使っていたことで、効果のある良質な薬を生み出し、売薬の信用にもつながっていきました。
■全国へ広がる富山売薬
富山の売薬商人の先用後利という商法は、先に薬を置いてもらい、後で使った分の代金を支払うもの。富山の薬は薬効が高かったことの他に、この顧客の利便性を考えた独自の方法が、富山売薬を発展させました。また、発展の契機として、江戸中期の元禄時代は社会が安定して経済が発展したこと、それによって庶民も豊かになっていったことがあげられます。さらに、西回りの海運航路や街道整備など、交通網が発達したことも大きな契機となりました。海運によって大坂からの原料の輸入や、全国への行商が活発となりました。日本列島のほぼまん中にある富山から北陸道を通って東北や九州地方へ、さらに飛騨街道を通って、信濃、美濃を経て太平洋沿岸へ行く道も開かれました。陸上、海上ともに全国市場へのルートが確立されていったのです。
■売薬の発展を培った風土
売薬商人の出身地は、富山を中心に、かつてたびかさなる洪水の被害を受けていた地域で、滑川、水橋、東岩瀬、四方などがあげられます。北アルプスの山々から一気に流れ下る急流河川によって頻繁だった洪水や冬場の積雪などから、これらの地域では出稼ぎが重要な生活手段となっていました。人々は生活の糧を求めて遠隔地へ行商に出掛けますが、多くは農業との兼業で行われていたため、旅先には定着しないで行商を終えると地元に帰ってきました。農業のために故郷に帰ってきたことも富山売薬の特徴です。厳しい自然に鍛えられた粘り強さと辛抱強さ、質素・節約を重んじる生活、厳しい生活を打破すべく積極的に努力しようとした精神が、多くの危険や困難を伴いながら全国に販路を拡大した富山売薬の発展を支えていました。
■全国に散らばる仲間組
富山の薬は藩を越えた「輸入品」であったために、旅先での営業には各藩の鑑札(許可)を受ける必要がありました。他国からの売薬商人が藩内で行商をすることを制限する入国統制を行なっていたのです。富山の売薬商人たちの全国への行商は、仲間組によって厳重に管理されていました。鑑札は個人ではなく、地域毎に組織された仲間組を通して旅先藩と交渉がもたれ、仲間組に与えられていました。安政期(1854〜60)には、信州組、関東組、美濃組、五畿内組、九州組、薩摩組、南部組、越後組など22の仲間組があったといいます。幕末の頃には富山藩には2000人以上、加賀藩の領域と合わせると3000人以上の売薬さんが活躍し、日本一の規模を誇っていました。
■富山藩の積極的な支援
旅先藩で薬の行商ができるのは、定められた仲間組の者に限られていました。仲間組によって、新規参入を抑えるとともに、利益の保障、売薬事業の育成が図られていました。仲間組では同じ世帯に重ねて配置販売することを禁じたり、値引きの禁止など、価格協定も行われていました。
また、富山藩は、文化13年(1816)には「反魂丹役所」を設置し、積極的に売薬商人の経営を支援しました。各藩との難しい折衝を富山藩が手助けしたり、道中の経費を援助するなど、売薬業を守り発展させました。また、売り上げに応じて、富山藩に税金を納めるという仕組みができ、富山藩の貴重な財源となっていきました。官民一体の取り組みで、富山の売薬は大きく発展を遂げたのです。
■薩摩藩と昆布ロードと薬の輸入
旅先藩での売薬の営業差し止めを避けるために、各地で藩経済のプラスになるような対策が必要とされました。中でも薩摩藩との取り引きには、富山ならではの特徴があります。薩摩組の売薬商人たちは、薩摩では手に入りにくい北海道松前の昆布を、太平洋側ルートや日本海側ルートを通って遥か日本の最南端の薩摩まで北前船で送りました。昆布貿易によって薩摩藩に利益を与えることで、薩摩での行商を続けることができたのです。さらに薩摩藩に送られた昆布は琉球を経由して中国へと輸出され、中国からは逆に薬の原料が輸入されました。鎖国時代にあって、長崎という窓口を通さずに輸入することで、薬の原料を安く大量に輸入することができたのです。
この貿易を裏方として支えたのが、売薬商家で北前船主でもあった密田家でした。密田家は能登の出身で屋号は能登屋。薩摩・紀伊を主要な配薬先とする富山を代表する売薬商家でした。後の北陸銀行の創設者の一人として、富山の金融基盤をつくり上げた立て役者でもあります。天保9年(1838)に船が漂流し、ハワイまで行った次郎吉の物語で知られる長者丸も、密田家所蔵の北前船でした。売薬蔵とも呼ばれた密田家の土蔵は、現在、富山売薬資料館に移築・復元され、江戸期の商家建築の一部を間近で見ることができます。
■売薬版画と進物
売薬商人たちの行商の旅は、原則として春と秋に行なわれました。この季節は、秋の収穫期や出稼ぎから帰る時期にあたり、旅先の家々に現金収入があるためです。また、行商になくてはならないものがありました。それは進物(おまけ)です。得意先との信頼と絆を維持していくために、年に1〜2回、販売額に応じた進物が届けられました。
最初の進物は、江戸時代後期から富山でも制作されるようになった浮世絵、いわゆる売薬版画です。当時は錦絵、または、絵紙(えがみ)と呼ばれていました。日本のおまけ商法の元祖ともいわれ、紙風船以前の売薬進物の主流でした。最大の特徴は、ごく初期を除いて、富山の版元で、富山の絵師によって刷られていたということ、安くするために色数が3〜5色に抑えられていたことです。最初は江戸の版元から浮世絵の版木を購入したと言われていますが、やがて富山で版を作るようになります。当時人気だった江戸浮世絵をそのまま引用して作られた名所絵や役者絵などが数多くあります。
また、売薬の宣伝が入っていないものが多いのも富山ならではの特徴です。印刷物が貴重で情報が乏しかった時代、地方の人々にとても喜ばれた進物でした。
やがて、明治時代の後期頃から、大人向けの売薬版画の進物から、子ども向けの紙風船に変わっていきました。上得意には九谷焼の湯呑や杯、若狭塗の箸も贈られました。その他にも、扇子、縫い針、うちわ、髪を結うための元結(もとゆい)など、いずれも持ち運びに便利な軽いものが選ばれました。
明治以降、進物競争となった時期もありましたが、戦後になって過当競争を防ぐために高価な品は廃止となり、紙風船や喰い合わせ表などのチラシ類にとどめる申し合わせがなされました。現在はゴム風船などが配られています。
次回は、売薬さんたちの旅先での物語や、薬種商の薬づくりについて、また、今日の富山の産業基盤を作っていった歴史についてご紹介します。さらに、現代の売薬さんにお話を伺い、富山売薬の現状と新時代に向けての課題などを考えていきます。
当所では、富山市価値創造プロジェクト事業の一環として、「健やか薬都・とやま」の振興と発展、情報発信に努めています。現在にいたるまでの様々な業種に深いつながりを持つ富山の売薬。当所では今後も積極的に「薬都・とやま」を支援していきます。
参考文献/『富山の薬―反魂丹』富山市教育委員会、『富山県薬業史』富山県
取材協力/富山市郷土博物館
■富山市売薬資料館
〒930-0881 富山市安養坊980(富山市民俗民芸村内)
TEL:076-433-2866
開館時間 9:00〜17:00 但し、入館は16:30まで
休館日 年末年始・臨時休館あり
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