平成14年1月号 |
新春特別企画
佐々成政と富山
立山博物館 顧問 廣瀬誠(元県立図書館々長)
戦国の武将・佐々成政。「立山ざらざら越え」、「小百合伝説」など佐々成政にまつわる伝説は私たち富山県民に多く語り継がれています。しかし、実際、どのような人物であったかはあまり知られていないようです。そこで今回、新春特別企画として、立山博物館顧問の廣瀬誠氏に私たちの郷土の英雄「佐々成政」について寄稿いただきました。これを機に佐々成政に対する理解を少しでも深めていただければ幸いです。
■末森合戦と金の馬印
「さても見事な陣構え。金の馬印、金の旗指物、きらきらと朝日に輝き、敵ながらあっぱれなるかな。われもかくのごとく金色まぶしく陣を飾りたいものだ。」
佐々成政の陣を望見して前田利家はこのように賛嘆し羨望したという。
天正十二年(一五八四年)九月、佐々成政の大軍はひそかに出陣、本隊はガラガラ坂(現・小矢部市)を越え、支隊は沢川(現・福岡町)の山道を越え、能登末森城(石川県押水町)を奇襲した。
末森は加賀・能登の境目の要地。前田の領地が鶴の首のように細長くなったその喉元だ。ここを攻略すれば、前田領を南北に分断し、利家の死命を制することができるのだ。末森城を守っていたのは猛将奥村永福。激しい攻防戦で落城寸前まで追いつめたが、永福よく頑張り抜き、その妻・やすの奮闘も目覚しく城兵を励まし、傷者をいたわり、かいがいしくかけめぐった。
末森からの急報に接し、前田利家・利長の大軍が尾山(金沢)松任から軍馬にむち打って駈けつけ、成政軍は城兵と支援軍とに挟み撃ちされる形になった。
戦勢不利と判断した成政は全軍に撤退を命じた。惨めな敗走でなく、堂々たる退陣であった。成政軍は金色に輝きながら一糸乱れず、整然として引き揚げた。その壮観に末森の城兵も心奪われて見とれたという。利家が「敵将ながら見事」と感嘆したのはその時のことであった。
末森攻略は失敗したが、成政は転んでもただでは起きず、退路途中、前田側の鳥越城を攻略奪取し、城兵を配置して悠々富山へ引き揚げた。ゆくての空に秋晴れの立山連峰は稜線あざやかに澄んでいたであろう。
金色に輝く馬印・旗指物は、成政が莫大な黄金を所有していたことを裏付け、後世これが埋蔵金伝説を生み出した。隠し場所は鍬崎山とも内蔵助平とも早月谷とも針木峠ともいわれる。埋蔵金は多分事実ではないと思われるが、多くの人の夢をかき立てた。成政の支配した越中新川郡には松倉金山・亀谷銀山はじめ「七かね山」があって、これが成政の資金源だったのだろうという。
■立山ざらざら越え
佐々成政は主家・織田家に対して愚直なまでに忠節一筋、信義一徹であった。その点、「お家」保全のため、しばしば変節した前田氏とはあまりにも対照的であった。
成政は秀吉に対して憤激した。秀吉は主家・織田家をないがしろにして天下人にのし上がってゆく。そして、利家は秀吉べったりだ。そこで成政は徳川家康と手を結んだ。家康は織田信長の子・信雄を押し立てて小牧(現・愛知県)で秀吉と対陣した。成政は秀吉側の前田に対して戦端を開き、末森城奇襲に踏み切ったのであった。
ところが、その家康は秀吉と和睦してしまった。この報に愕然とした成政は、なんとしても家康に再起を呼びかけようとした。しかし、東には宿敵上杉、西には前田が目を光らせて成政を監視している。残された道は立山を越えて信州に出るコースだけだ。時はすでに冬。雪の立山越えは危険きわまる暴挙だ。
剛胆な成政は意を決した。ひそかに、わずかの部下をひきつけて富山城を出た。成政はあらかじめ立山権現・立山姥堂に祈念をこめ、芦峅の山男たちの協力を得て雪の立山踏破に踏み切ったのであった。
予想以上の危険と苦難の連続で、激しい疲労のため幻覚幻影にも襲われた。四百年前の平家残党の豪傑・悪七兵衛景清らが現れたという。激烈な雪崩が山谷を震動させて一行を脅かした。犠牲者も出たが、とにかく立山越え、いわゆる"ザラザラ越え"を断行して家康の浜松城に到着した(単なる伝説でなく、家康側の史料「家忠日記」の天正十二年十二月二十五日の項に明記された史実だ)。近年発見された「武功夜話」には、成政一行熊の毛皮で身を包み、四尺の野太刀を帯び、らんらんと目を光らせていたと、一行の荒々しい息遣いが迫るように記述されている。
しかし、家康に態よく断られ、成政はすごすごと富山城に引き返した。万策尽きた成政は織田信雄を通じて秀吉に服従を申し出た。
翌天正十三年秋、秀吉は大軍を率いて越中征伐にやってきた。その威勢を天下に見せつける魂胆であったろう。秀吉は倶利伽羅峠を越え、太閤山を経て呉羽丘陵最高点の白鳥城に到着し、富山城を眼下に見下ろした。
成政は呉羽山の下安養坊で剃髪して謹慎の意を表し、丘陵を埋めた軍勢の間を通って白鳥城におもむき、正式に秀吉に降伏した。成政の降伏姿を前田の軍勢がドッと笑って侮辱したというから、成政さぞ無念であったろう。
何事もかはりはてたる世の中に
知らでや雪の白く降るらん
その年の冬の成政述懐の一首である。成政の心情が惻々として伝わってくる。(この成政の歌碑は富山城址・郷土博物館玄関口左手の樹叢の間に立つ。また、剃髪碑は呉羽山民俗民芸村の一隅に立つ)。
成政は領国越中の半分の没収され、新川一郡の領主となったが、天正十五年には国替えを命じられ、肥後(現・熊本県)一国の領主にされた。しかし、肥後では一揆騒動が勃発し九州の治安が混乱した。成政はその責任を問われて召し還され、尼崎の法園寺で切腹させられた。
このごろの厄妄想を入れ置きし
鉄鉢袋いま破るなり
これが成政辞世の一首。この歌碑は法園寺の成政の墓の傍らに平成十一年に建てられた。煩悩の固まりであったこの体、鉄のように剛健で戦国乱世を生きぬいてきたこの体も、今切り割って、ここで一生を終わるのだという悟達の心境であろう。
成政は尊皇の志深く、かつて朝廷に献金し、また鶴を献上したこともあった。成政の娘の一人は女官として朝廷に仕えていたという。後陽成天皇は深く成政の死を悼まれ、特に御製の色紙を下賜された(後鳥羽上皇の哀悼御製を後陽成天皇が染筆して下されたもの。この色紙は法園寺に秘蔵されている)。戦国武将は数えきれないくらい多いが、天皇から哀悼の色紙を賜わったのは成政だけでなかろうか。この栄光に悲運の英傑、もって瞑すべきである。
また、成政の一人の娘は狩野永徳の子・尚信に嫁ぎ、その子は守信(すなわち有名な探幽)である。成政の孫が日本を代表する大画家になったのだ。成政の血統が日本文化史上に残した大きな足跡をあらためて思うのである。
立山から激落してくる常願寺川は恐ろしい暴れ川であった。その馬瀬口に佐々堤を築き、富山を洪水から守ったのは成政であった。常願寺川からの分水いたち川を大修築して農耕・水運・防備の有用河川に仕上げたのも成政であった。成政は治水の大功労者、富山の恩人であった。雪の立山越えの剛勇と領民領土愛護を兼ね備えた武将、それが成政であった。