会報「商工とやま」平成15年2・3月号 |
富山市には来迎寺と名のつく寺が3寺もあって、中野の来迎寺・見付の来迎寺・布市の来迎寺と呼び分けた。中野(町名改編のため現在は太田口)の来迎寺は真言宗だが、布市も見付も同じ梅沢町で同じ浄土宗の寺。
来迎とは衆生臨終のとき仏が現れて迎えに来て下さることをいう。立山などの高山で日の出あるいは日没に美しく神秘的な七彩の円虹が現れるのを、仏が光背を背負って来迎する姿のように見えるので「御来迎」と称し、これを見た登山者は感激したものであった。
中野の来迎寺は、もと立山山麓にあった寺で、それが立山から出て婦負郡呉羽村の福畠(現・富山市呉羽町)に移転。それがさらに富山藩祖・前田利次の招きで中野の現在地に移ったのだという。
寺の伝説によると、立山の三尊が光り輝いて寺の屋根に来臨されたという。また、寺の本尊の正観音像は行基菩薩が立山で刻んだものだという。
見付の来迎寺は、立山開山の佐伯有頼(慈興上人)が立山の千坊が原に創開した真言宗の寺であったが、鎌倉時代婦負郡萩ノ島(現・婦中町)に移転し、法然上人の感化で浄土宗に改宗し、光明山来迎寺と名のった。のちに富山の現在地に移転したという。
寺の本尊阿弥陀如来像は鎌倉時代の名作で県指定文化財。また、所蔵の立山曼陀羅は、数々の立山曼陀羅中、最も原初的な図柄を伝え、山容きわめて写実的で、立山の峰々の間に後立山連峰が淡く描かれているのも味わい深く、筆勢雄渾な逸品。その図中には弥陀三尊二十五菩薩の来迎が浄土山の上空にうやうやしく描き出されている。
すぐ近くの天台宗円隆寺が立山血の池の如意輪観音像を安置していて、近在の女性から厚く信仰されてきたことはすでに述べた(平成13年12月号
「立山と富山(6)」
参照)。立山に深いゆかりの寺である。
この円隆寺に毎年7月15日近在の子供たち(男も女も)集まり、輪を作ってサーイサツサヨンサノヨヨナーイとはやしながら歌い踊る(富山市指定の無形文化財である)。
このハヤシ詞を「もはや佐々の世ではない」の意をこめ、前田の治世を賛美したという俗解が行われているが、それこそ前田におもねって無邪気な童唄を悪く意味づけたものだ。
各地の民謡に類似のハヤシ詞があって、ヨヨナーイもヨンサから自然に続く言葉で、否定の「無い」ではなく、感嘆の終助詞のナが余韻余情を引いてナーイとなったものだ。逆に佐々治世賛美のハヤシ詞と考えることも可能だ。
円隆寺はいたち川のすぐ近く。この川こそ成政が富山城下町のため心を砕いて改修した川。その地にサンサイ踊りが踊りつぎ、歌いつがれてきたことは意義深い。