会報「商工とやま」平成14年4月号 |
立山讃歌
南北朝時代の興国3年(1342)、ひそかに越中に潜行して南朝勢力挽回のため努力された宗良親王は、雪をいただく立山の雄大な姿を見て、
ふるさとの人に見せばやたち山の千年ふるてふ雪のあけぼの
と詠まれた。この雪の立山の曙の清らかな姿をぜひ故郷の人に見せてやりたいものだと詠嘆されたのだ。万葉集の家持の歌から実に六百年ぶりに立山の自然美を讃えた和歌であった。
江戸時代になると立山讃歌は続々作られた。その1、2例。明和四年(1767年)詩人・大窪詩仏は「立山玉の如く立ち、上に太古の雪あり、三伏炎暑の日も、寒光猶凛然たり」と吟じ、天明六年(一七八六)、伊勢の荒木田久老は信濃・越後・越中を通過、富山で宿った。月の光に照らされて立山の雪が玉のように輝いて見えた。久老は、
立山に常(とこ)敷く雪に月影のかがよふ見れば玉にかも似る
と感動を吐露した。
大正十三年晩秋、摂政宮(後の昭和天皇)は富山県に行啓され、新雪きらめく立山連峰の壮観に感動され、翌年の歌会始に「山色連天」の御題の下、
立山のそらにそびゆるををしさにならへとぞ思ふみよのすがたも
の一首を発表された。「われらの立山を摂政宮さまが歌にして下さった」と県民は感激し、立山頂上直下三ノ越の巨岩にこの御歌を彫った。山上の工事は困難をきわめたという。やがて天皇崩御され、昭和と改元されて御歌碑完成し、積雪を踏み分けて県知事代理も登攀(とうはん)して除幕式を挙げた。(この御歌の碑は後呉羽山上にも建立された)
岡野貞一(「故郷」「朧月夜」等の名曲の作者)がこの御歌に謹作曲し、富山市役所では、この曲譜を印刷して各学校に配布し、小中学校の式典にはいつもこの御歌を斉唱した。中学校女学校の立山団体登山の際は御歌碑の前で斉唱するしきたりであった。
敗戦後の昭和二十二年、天皇巡幸を迎えて県庁前広場を埋めた人々から期せずして湧き起ったのは「君が代」と「立山の御歌」の大合唱であった。
エベレスト初登頂の世界的登山家ヒラリーが昭和四十五年立山に登った時、これを案内した日本山岳会富山支部の一行がこの御歌を斉唱すると、ヒラリーは歌が終わるまで直立不動の姿勢で謹聴し「日本のエンペラーに敬意を表します」と述べたという。