日本の発展を考えて生まれた、壮大な構想。
高峰譲吉は、急流である黒部川の電源開発に着目していました。
譲吉は当初、高岡の鋳造技術と、神通川(のち断念)の発電能力を組み合わせれば、電力を大量に必要とするアルミニウム工業が必ず発展すると考えていたのです。
1918年には黒部川の水利権を申請し、1919年、東洋アルミナム株式会社を設立しました。譲吉は、東京大学土木工学科出身で逓信省の技師であった山田
さらに、
しかし、第一次世界大戦後の不況のなか、1922年7月に譲吉が亡くなると電源開発事業は縮小してしまいます。東洋アルミナムは、アルミ製造事業を断念し、黒部水力株式会社と改称。代表を務めていた塩原又策は、会社の全株式を日本電力に譲渡しました。
譲吉の壮大な夢は、彼の死とともに日本電力へと引き継がれ、やがて富山県のアルミ産業の発展へとつながっていきました。