「商工とやま」H15年6月号
ここにもあったよ、富山の価値
さあ、出かけよう! 中心街の野外ミュージアムへ
〜緑輝く季節。富山城址公園・松川べりを歩こう!〜
近代的なビルが立ち並ぶ富山市の中心市街地に、緑と水の豊かな憩いの空間 富山城址公園、松川 があります。
「富山城址公園」のシンボルである富山城は、戦後復興を記念して建設されたもので、城内は現在、富山市郷土博物館として活用されています。公園内では毎年、チンドンコンクールや富山まつりなど四季折々のイベントが行われ、多くの市民が訪れます。
また、県庁や市庁舎、城址公園などの間をぬって流れ、電気ビル南側でいたち川と合流する「松川」は、100年程前まで水量豊富な旧・神通川の名残りですが、その両岸は桜の名所で散歩道にもなっています。
新緑の季節です。「富山城址公園」そして「松川」周辺へ、家族揃って散策に出かけてみませんか。富山の魅力、そして価値を、またひとつ発見できるかもしれませんよ!
一、富山城址公園モニュメント案内
豊かな緑と文化、芸術、そして歴史の息吹きを体感できる「富山城址公園」。季節を通して市民の憩いの場となっていますが、公園内には富山ゆかりの人物の銅像や歌碑、そして著名作家の彫刻が数多く点在しているよ。
A モニュメント「夢の聖地」
(社)富山青年会議所が創立50周年記念で建設したモニュメント「夢の聖地」(平成14年10月完成)。立山連峰と水をイメージしたモニュメントを中心に置き、市内の小学生らが夢を刻んだサイコロ石をその周りに敷き詰めている。
B「ブルージーンズ」浦山一雄
C 富山城石垣の刻印
富山城本丸から見て南西角(未・申)、つまり「裏鬼門」にあたる個所に大きさが約70pの五角形の星マークがある。これは今話題の陰陽道の呪符で、よく目を凝らすと見えてくる。
D 富山城
昭和29年に開催された富山産業大博覧会を記念して建設されたもので、現在は富山市郷土博物館として活用されている。戦国武将・佐々成政の居城を復元したものでないのが残念だが、富山市のシンボルとして多くの市民に愛されている。
E 佐々成政の歌碑
天文5(1536)年、尾張比良(現在の愛知県)に生まれる。織田信長の天下統一を輔ける。天正8年(1580)越後の上杉勢を追い払うため、越中に入国。天正10年(1582)には当時の富山城主・神保長住が越中を去ったため、成政が名実ともに越中国主となる。この碑には「何事もかわりはてたる世の中に知らでや雪の白くふるらん」が刻まれているが、天正13年(1585)、富山を襲った大地震で領民たちが被災し、その窮状に胸が痛む心情を詠んだものと伝えられている。
F 佐伯宗義像
明治28年、現在の立山町に生まれる。昭和18年1月、富山県内に分散していた私鉄網を統合し、現在の富山地方鉄道を築いた。また、立山黒部アルペンルートの開拓にも貢献した。衆議院議員8期歴任、経済学博士、富山市名誉市民。
G 中田幸吉像
昭和44年から昭和55年までの3期11年にわたって富山県知事を務めた。
H 富山歌塚
富山県歌人連盟の創立30周年記念事業として昭和60年9月に建立されたもので、大伴家持像が乗っている。側面には「春の園 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子」の歌が刻まれている。
I 前田普羅の句碑
本名は忠吉。ホトトギス派の俳人で普羅と号し、高浜虚子門下四天王の一人に数えられた。明治18年、横浜に生まれ、早稲田大学を中退。大正13年、報知新聞富山支局長として来富。立山のそそり立つ富山の風土に惚れ込み、昭和4年、富山永住を決意。俳誌『辛夷』を主宰、多くの門弟を指導した。富山大空襲などたび重なる災難のため、娘のいる東京に移住した。
J 千歳桜の碑石
富山藩10代藩主・前田利保が藩主の座を退き、その隠居所の千歳御殿にたくさんの桜を植えたと伝えられている。後年、この桜が老朽化したため、昭和9年。松川堤に桜の植樹が行われ、現在富山県を代表する桜の名所のひとつになっている。「松川のまつのちとせをその名にてつつみのさくらとはにかをらむ」田村直喜
K 前田正甫公像
富山藩2代目藩主。元禄3(1690)年、参勤交代での江戸城で、福島県岩代三春の城主・秋田河内守が腹痛を訴え、居合わせた正甫公が「反魂丹」を勧めると、たちどころに治ったことから「その薬を領内で売って欲しい」という大名が多く現れ、諸国で販売した。これが現在の配置薬業(売薬)の始まりであると言われている。
L 景雲橋
「二、松川周辺」へ
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