「商工とやま」H16年12月号

発掘から解明する富山城 其の二

◆ 佐々成政時代の暮らしぶり
富山市埋蔵文化財センター 専門学芸員 古川 知明

神保氏や佐々成政がいた頃の富山城の中で、人々はどんな暮らしをしていたのか、発掘された遺構や出土品から復元してみましょう。


■成政の功績か豊かな食料事情

 中世富山城の中央にあった堀には、火災で焼け焦げたかわらけや穀類が捨てられていました。穀類は、コメ・コムギ・オオムギ・ヒエ・アワ・マメ類など、食生活の主要な「五穀」が揃っているほか、ソバの実も出土しています。戦国時代はたび重なる騒乱で、田畑からの収穫も満足に得られなかったと思われますが、神保長職や佐々成政など、越中の有力武将たちを従えたトップの居城であった富山城では、そのような姿は微塵も感じられません。成政は治水にも力を入れ、軍を維持するための生産力を高めたことを反映しているのかもしれません。


■武器作りが盛んだった富山城

 城址公園の西側、江戸時代に「西の丸」と呼ばれていたところは、戦国時代には二の丸という二番目に重要な廓(くるわ)として機能していました。ここから数々の遺構が発掘されました。

 西の丸の北隅からは、直径1Mほどの高温で焼けた跡が出てきました。この周辺からは、鉄滓(てっさい)、鞴(ふいご:送風装置)の部品などが出土していることから、そこは鉄の刃物を製作した鍛冶工房であったことがわかりました。高温で焼けたところには熟した木炭を置き、鉄の延板を入れて高温に熱します。赤熱した鉄を取り出し、鉄槌で叩いて成形します(これを鍛造(たんぞう)といいます)。叩くときに火花が四方に飛び散りますが、この火花の正体が鍛造剥片と呼ばれる数ミリの大きさの鉄の板です。ここからは多くの鋳造剥片が見つかっており、鋳造が行われた事実を証明しました。

 さらに、付近からは砥石の破片や鉱物の金雲母(きらら)も出土しました。鋳造が終わった刃物は砥石で研ぎ上げると一応完成しますが、刀などの刃物の表面を鏡のように仕上げるためには、きららを砕いた粉が必要です。ここから出土したきららは、2〜3ミリの大きさの粒の揃った良質のものです。富山では江戸時代、氷見地方の鏡磨き職人はこのきららを必携し、優秀な技術を全国にとどろかせていました。これらのことから、この鍛冶工房では刃物の製造から完成まで、一環した作業を行っていたことが分かります。

 鋳造剥片はきららのような数ミリの微小な出土品は、どんなに目が良くてもなかなか発掘現場では見つけることはできません。遺跡の土を土のう袋に入れて持ち帰り、細かいフルイにかけて水洗いして初めて発見できます。遺跡にある何気ない土でも、そこには目に見えない多くの歴史情報が含まれているのです。


■富山城の武将たちも茶を嗜む

 さて、この鍛冶工房の周辺をさらに10センチ掘り下げたところ、建物の床(土間)が検出され、その床の上には壊れた茶臼が残されていました。茶臼とは茶葉を挽いて粉にする道具で、ここで抹茶を作り飲んでいたものでしょう。信長・秀吉をはじめとする戦国武将の多くが茶に親しむ風習があったことはよく知られているところですが、この富山城にいた武将たちも、戦の間にそのような風流を嗜んでいたことを裏づけています。

 しかしこの茶臼は火を浴びて真っ二つに割れており、城が戦に巻き込まれて炎上したという悲しい歴史もまた物語っています。この戦の後、この地は整地され、先に述べた鍛冶工房が作られたことになります。おそらくそこでは戦闘に使用する刀や槍などを製造していたのでしょう。戦に備えた軍事的緊張状態の城の中のようすが目に浮かぶようです。

 このように、地中から出た一つ一つの出土品や遺構には、戦国時代の栄枯盛衰の歴史や人々の暮らしの痕跡が残されています。それを正しく理解することによって、失われた歴史の事実が明らかになるのです。


■お問い合わせ先 富山市埋蔵文化財センター TEL076-442-4246


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