「商工とやま」H17年1月号
発掘から解明する富山城
富山市埋蔵文化財センター 専門学芸員 古川 知明
■富山城に天守閣はなかった? 江戸時代、富山城に天守閣は存在したのか、今もって分かってはいません。本丸の南東隅、城址公園東側の地下駐車場入口付近に天守建築が計画されたことは、寛文元(1661)年幕府が許可した改修計画に「天守」の文字が見えることから明らかですが、度重なる火災・水害・地震で疲弊した藩の財政状況を考えると、天守閣建築まで手が及んだかどうか疑問です。その後の絵図や記録には天守の文字はなく、建物はあったようですが、幕末の建物取壊しの図面にも天守閣の建物は現れないことから、天守閣はなかったというのが現在の考えです。 ■佐々成政から前田利家へ さて、佐々成政が秀吉に城を明け渡した後、城は破却されました。破却とは、戦略的に城を使えなくするために主な防御施設を壊すもので、富山城では土塁を壊し、発掘で見つかった本丸中央の堀を埋めたとみられます。その後の管理は秀吉の家臣前田利家に託され、利家はその子利長を派遣して、慶長10(1605)年から本格的に城と城下の整備に着手しました。建物や石垣の見積を出させ、木材を県境の飛騨横山(現岐阜県飛騨市神岡町)に求め、さらに遠く羽喰山(現石川県羽咋市)からも調達しました。そして大工は越前・若狭から呼び寄せられました。 石垣は、高さ2mを超える巨石を割って、最も重要な大手側入口の石垣に組み込まれました。このような巨石は「鏡石」といい、有力な大名が権力・財力を誇示するため用いたとされます。江戸城・大坂城・金沢城等大藩の城に見られ、慶長期に流行した手法です。利長が富山城を整備した時期、富山県下は加賀前田氏の支配下にあり、遠距離からの資材調達や鏡石の配置が可能となったのは、利長の財力のなせる業であったとすればうなづけます。 ■繰り返し天災に遭う富山城 小さいながらも本格的な城として整備を始めて2年後、ほぼ完成をみた頃に城下や城が全焼するという事件が起こり、利長もさすがに城を放棄せざるを得ませんでした。富山城の悲劇は、記録に残るだけでその後大火の類焼3回、神通川の水害2回、地震1回があり、まさに天災の繰返しの歴史だったと言うことができるでしょう。 発掘では、本丸で4回の大火跡を示す土層が確認されたほか、西側の西の丸では江戸前期の木炭層が見つかりました。木炭層は厚さ20cmにも及び、大火で焼けた廃材を集積した場所であったと考えられます。この西の丸の木炭層が示す大火は、慶長14(1609)年か延宝3(1675)年のいずれかの大火跡と思われます。 ■発掘から分かる城内の生活 江戸時代の城内での暮らしぶりがわかる遺物として、西の丸から古伊万里や唐津、古九谷など高級な食器類がまとまって出土しました。当時県内で一般的に使われていた食器は富山で製作された越中瀬戸焼や素焼きの皿でしたが、それはほとんど出土していません。このことは城内での生活がかなり豊かであったことを示しています。 富山藩十万石の城は、明治時代に入って多くが破壊されましたが、藩主が住んだ本丸御殿の一部は県庁として使われたり、時を告げた時鐘は西町辻へ、また千歳御殿を始めとする門は民間へ払い下げられました。現在城址公園に残る江戸時代の城の跡は、石垣だけとなってしまったのです。 ■お問い合わせ先 富山市埋蔵文化財センター TEL076-442-4246 |