「商工とやま」H17年4月号
発掘から解明する富山城
神保氏や佐々成政が居城した戦国時代の富山城には石垣が存在せず、土塁という土の築山が巡っていたと考えられています。成政が秀吉に降伏した後、秀吉の命により富山城は取り壊されました。代わって新しい富山城を築城する役目を申し付けられたのは、前田利家の子・利長です。利長は慶長2(1597)年いったん富山城に入るものの家督相続のため金沢へ戻り、慶長10年隠居して富山に戻ってから本格的な城と城下町の整備に着手しました。 ■城主の武力・財力の証「石垣」 まず城の縄張を決め、石の見積もりを出させ、必要な木材を県境の飛騨横山に手配しました。そして若狭・越前の大工を呼び寄せ、不足する木材は能登羽咋市周辺から調達したことが記録に残っています。加賀前田家の総力を挙げての城づくりがここに始まりました。 そのことは現在残る石垣からも知ることができます。石垣の中には2mを超える巨石が6個も配置されています。この巨石は「鏡石」といい、城主の武力・財力を誇示するために用いたとされています。 もう一つは石垣の石に彫られた刻印です。この刻印は、石を選定し、切り出し、城で積む過程で付けられた目印で、それぞれの段階において担当した石工集団の識別のため付けられたと考えられています。これまでは10種類20個余りしか見つかっていませんでしたが、最近の調査により、実に87種類、250個以上もの刻印が確認されました。富山城にこれほど多くの刻印があることは、多人数の石工を使って短期間で調達、築造したことを意味します。高度な加工技術を要する鏡石の存在も含め、多人数の石工を束ねて築造を遂行するには、石垣築造の専門集団が必要です。加賀前田家では、金沢城石垣の築造・維持管理に穴生(あのう)衆や斎藤家という石垣技術者を専門に当たらせており、利長は富山城石垣築造にあたってこのような専門集団を呼び寄せたと考えられます。 ■石の運搬に神通川を利用 石垣に使用された石は花崗岩と安山岩です。石垣の石をよく見ると、丸いすべすべした川原石を割って使ったことがわかります。金沢城では、約8〓離れた戸室山周辺から切り出した石を陸路で運搬しており、大変な手間がかかっていますが、富山では河川の水運を利用し、神通川河口を経由して直接運び込むことが可能であったため、大量の石をいっせいに集めることも容易だったとみられます。 しかしどの河川の石を利用したかは科学的に証明されていません。それらの石は富山県東部の河川の多くに存在するからで、肉眼観察では、花崗岩は早月川・片貝川、安山岩は常願寺川あたりが主な候補地です。今後の研究で産地が解明される日も近いでしょう。 ■利長の鏡石や築石が後世に このように、富山城の初期石垣の築造は、加賀前田家の財力を背景とした前田利長の力によって成し遂げられたのです。しかし2年後、城は大火で焼け落ち、利長は高岡城を築城して移り、富山城は荒廃します。その後寛文元(1611)年富山藩十万石が成立し、城を再興しますが、度重なる大火・地震・洪水のため城や城下が被害を受け、その復旧で財政が逼迫したとされます。このため崩れた石垣の修復には、利長時代のように十分な手間が掛けられず、専門的知識の乏しい石工が積直しを行ったとみられ、ところどころに石垣の禁じ手とされる不良な積み方が認められます。 しかし、利長の遺した鏡石や築城初期の築石は、その後もずっと代々の藩主によって大切に守られ、何度崩れてもなお使い続けられました。これは財政上石の新調が困難だっただけでなく、富山藩にとって宗藩である加賀前田家や富山城の基礎を作った前田利長に対する畏敬と配慮であったと考えられます。
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