会報「商工とやま」表紙 平成16年度 |
平成16年度「富山の近代化を担った建築(建造)物」シリーズ 富山市中心市街地は戦災で壊滅的な状態になりましたが、市全体としてみたとき、明治から昭和初期にかけて建築(建造)され、富山の近代化に大きな役割を果たした建築(建造)物が各地にあることに気づきます。 |
4月号 「桜橋」 |
桜橋は橋長約16m、幅員約22mのリベット打ちの鋼製アーチ橋で、富山市都市計画事業の一環として、昭和10(1935)年に完成した。 富山市の中心部を流れる松川に架かる橋で、ビル街を路面電車が走り抜け、春には桜並木に沿って遊覧船が橋下を通るなどシルエットが美しく観光資源としても活用されており市民に広く親しまれている。 都心部の歴史的景観を示すものとして高く評価され、平成11年には県内の橋梁(りょう)では初めて国の有形文化財として登録された。 |
2・3月号 「新庄赤門」 |
明治24(1891)年、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの計画により、常願寺川大改修工事が行われ、常西合口用水が整備された。 常願寺川は土砂の多い川であり、そこから水を引く同用水の土砂対策は欠かせない。明治32年に起こった出水による土砂の流入は、同用水の機能をマヒさせ灌漑用水不足など甚大な被害を与えた。この災害により排砂施設の必要性が高まり、翌年の明治33年8月より工事に着工、同年12月に早くも竣工をみた。 排砂水門は、流れ込む土砂をため、水を用水路へ、土砂は排砂水路を通じて神通川に流す仕組みになっている。また、水門は赤煉瓦で作られているため「新庄の赤門」の名で親しまれており、平成5年の修理工事後も、現役の施設として水を分水している。 |
1月号 「富山県庁舎」 |
富山県庁舎は、国会議事堂の建築を手がけた大熊喜邦氏が設計し、昭和10年(1935年)に完成した。総工費は約118万円(現在の18億円相当)。 当時の県は、神通川廃川地を近代都市に整備しようと区画整理を実施中であった。おりしも、旧庁舎が全焼し、新庁舎建築の必要性に迫られていた県は、この埋立地での庁舎新築を決定。建築後は行政機能の中心的役割を果たすととともに富山駅と市街地を結ぶビジネス街形成の起爆剤となり、富山の近代化を担った。 耐震・耐火に留意した鉄筋コンクリート造の堅牢な庁舎は、昭和20年8月の富山大空襲にも耐え、今も現役庁舎として風格を保っている。 |
12月号 「大久保発電所」 |
大久保発電所は明治32年、水力発電構想に青春をかけた密田孝吉と実業家金岡又左エ門が富山電灯株式会社(資本金10万円)を設立し大久保町塩(現大沢野町)に建設した。 大久保用水の水を神通川に落とし、その落差(約20メートル)を利用し発電(発電力は150キロワット)、この電力により、富山市内の家々に電灯を輝かせ、当時の人々を大喜びさせたほか、近代化になくてはならない電気を提供した。 その後電気の使用量も増加し、大正5年に発電機を増設、平成11年3月に建物を含め一新した。現在も稼働中であり、今も富山の近代化に貢献している。 |
11月号 「廣貫堂」 |
廃藩置県による『反魂丹役所』(配置家庭薬の製造と販売業者を指導管理した役所)の廃止後、これを引き継いで、明治9年に配置家庭薬業者が共同で「富山廣貫堂」(現(株)廣貫堂)を創設し、和漢薬を中心に「先用後利」の商法で全国に販路を拡げていった。明治27年に売薬業者養成のため、共立薬学校を設立、これが現在の富山医科薬科大学薬学部へと受け継がれるなど、人材育成に力を注ぎ人材立県として富山の近代化に大きく貢献した。 現在の建物は、昭和29年4月に、薬都の殿堂として建設され当時は富山市内で代表的な建物と評された。 |
10月号 「大和富山店」 |
昭和9年に宮内大丸百貨店の富山進出に伴い建築された、鉄筋コンクリート7階建てのビル。店舗面積15,480平方メートル。新宿の「伊勢丹」をモデルとして造られたレトロな外観は、
昭和20年の富山大空襲の戦災にも耐え、富山を代表する建築物のひとつとして長く親しまれた。また戦前、戦後を通して富山の流通の近代化に貢献した。 現在も県内有数の売上を誇り、70年近い歴史を持つビルだが、老朽化が著しく進んでおり、平成18年開業予定の現在建設中である再開発ビルに店舗移動が決定している。 |
8・9月号 「金岡邸」 |
薬種商の金岡邸(主屋)は1879年(明治12年)に建築された。 当時の薬種商は、薬の原材料の問屋としての機能だけでなく、自らも製薬を手がけ、売薬業者への製薬技術の指導にも携わるなど、富山売薬を陰で支える重要な存在だった。また、資本家であった薬種商は金融や繊維、出版、鉄道、電力など多くの分野に資本を投じ、富山県の近代化に大きく貢献した。 1945年8月の富山大空襲にも耐え1981年に県に寄贈される。現在、売薬資料館として活用されているほか、主屋と大正時代に建てられた新屋が国の登録有形文化財となっている。 |
7月号 「富山電気ビル」 |
富山電気ビル(旧館)は、昭和11年(1936年)、当時の日本海電気(北陸電力(株)の前身)が神通川の廃川地に建設したネオ・ゴシック的なデザインを基調とするビルで、鉄筋コンクリート造りの堅牢さとビル関係者の必死の消化活動で昭和20年8月の富山大空襲にも耐えた。 このビルに昭和40年代まであった洋式ホテルには、経済人・学者・著名人などが宿泊し、また、北陸電力の本社など、企業活動の拠点として、富山の近代化のシンボル的な建築物である。 |
6月号 「北前船回船問屋森家」 |
森家のある東岩瀬は、幕末から明治にかけて、北海道や大阪との交易を担った北前船で栄えた港町。北前船は北陸や日本海沿岸、九州、大阪などを結び、その貿易から得られた資金が本県企業の創業及び近代化に大きく貢献した。 森家は、明治11年(1878年)建築の代表的な回船問屋の商家で、建築には3年の歳月を費やし、そのうち材料集めに2年をかけたといわれている。玄関から当時あった家の裏の船着き場まで続く土間の床には小豆島から運ばれた一枚岩の御影石が敷かれているなど、往時の面影を残した重厚な建物である。同時に本県の近代化を象徴する建物として国の重要文化財にも指定されている。 |
5月号 「富岩運河・中島閘門」 |
富山港と駅北地区を繋ぐ富岩運河の中間地点に設置されている中島閘門(長さ約60m・幅約9m)。 パナマ運河方式によって建設されたもので、同運河の開削に合わせ昭和9年に完成した。この閘門は、2対の鋼鉄の門扉で約2.5mの水位差を調整する仕組みとなっており、戦前・戦後を通して、工業用原料を運ぶ船が往来するなど、富山市の臨海部工業地帯の形成に大きな役割を果たした。また、運河開削で出た大量の土砂は、神通川廃川地の埋め立てに利用され、新市街地の形成にも役立てられた。 中島閘門は、わが国の都市計画史上、貴重な施設であり、コンクリート・鉄筋コンクリート・石を適所に使い分けた構築技術は、昭和初期の土木技術の完成度の高さを示していることから、平成10年、昭和期に造られた土木構造物としては全国で初めての国の重要文化財(近代化遺産)に指定された。 |