「商工とやま」H17年5月号
発掘から解明する富山城
富山市埋蔵文化財センター 専門学芸員 古川 知明 6月10日の時の記念日の正午に、神通川原で「ドン」の打上げ花火が上がることをご存知でしょうか。これは、もともと富山城で2時間毎に「時鐘」を撞いて時を知らせていた名残として現代に引き継がれたものです。 ■藩主の願いを込めて鋳造
富山城の時鐘は、寛文11年(1671)4月21日安養坊山で専用のものが鋳造されたという記録があり、これが最初のものと考えられます。安養坊山は現在の呉羽山展望台付近で、富山城の佐々成政を攻める際に前田利家が軍勢を駐留させたところです。 ■明治の大火で消滅
4代目の時鐘は天保6年(1835)に鋳造されました。この鐘は、明治6年(1872)の時鐘台取壊しに伴い西町辻に移転し、明治16年再び城内に戻って石垣の上に設置されました。しかし明治32年の大火で時鐘台は焼け落ち、時鐘も粉砕してしまいました。当時この壊れた時鐘は、正甫公が鋳造した金銀の入った時鐘(実際はそれから2回改鋳された4代目のもの)という風評が流れ、破片が多く略奪されたという新聞記事が残っています。このとき富山城の時鐘は名実ともに消滅してしまったのです。 ■奉納された鐘はモニュメント?
富山藩主祈願所であった富山市於保多町の於保多神社には、富山城の時鐘と伝える鐘が正甫公顕彰碑として奉納されています。しかしその鐘は、写真から復元した大きさよりはるかに小さく、鐘の各部分の文様は、宮崎義一や富山鋳物師が使用しなかった型式のものです。このことから於保多神社の鐘は、碑を造立するときにどこかから取り寄せられたモニュメントであることがわかります。 ■お問い合わせ先 富山市埋蔵文化財センター TEL076-442-4246 |