「商工とやま」H17年10月号

特集
ふるさとを歩く 〜立山を仰ぐ呉(くれ)羽(は)山(やま)界隈〜


 空気が澄み、外を歩くのが心地よい季節になりました。紅葉の便りもほどなく聞かれるこの頃、週末を利用して呉羽山界隈を歩いてみませんか。

 呉羽山は富山平野をほぼ東西に分かち、文化や風習、方言まで分け隔てるという富山県民にとって存在感のある山です。古くから様々な歴史の舞台にもなり、民俗民芸村などは知っていても、意外と知らなかった謂われや場所もあるかと思われます。この秋、ご家族で散策を楽しみながら、郷土の奥深い歴史や価値資源に触れて、語り合ってみましょう。

 呉羽山は、通常、県道富山高岡線で分けられる南側を城山(最高145m)、北側を呉羽山(最高77m)と呼んでいますが、今回は、呉羽山(下記「呉羽山界隈地図」参照)を取り上げました。


写真 1 八幡社
平安時代末期、信濃に兵を挙げ、都に攻め上がろうとしていた木曽(源)義仲は加賀での敗戦で援軍を乞う知らせを受け、直ちに越後から今井四郎兼平の軍勢を先発として越中に指し向けました。その兼平が寿永2年(1183)5月、御服山(呉羽山)に陣をとったとき、安養坊の坂を上がる途中、馬から降り、平氏との決戦の勝利を祈願した場所と伝えられています。

写真 2 佐伯則重の碑
佐伯則重は鎌倉末期から南北朝時代に活躍した越中の名刀工であり、この後に活躍する越中松倉郷出身の郷義弘と共に越中を代表する刀工です。正応2年または3年(1289または1290)、越中国婦負郡御服庄(現在の五福)に生まれ、鎌倉で新藤五国光に学び、伝説的な名工である岡崎正宗の相弟子にあたるといわれています。嘉暦2年(1328)頃、越中に帰郷し、多くの名刀を鍛造し、国宝1点、重要文化財3点をはじめ優れた作品を残しています。「則重肌」または「松皮肌」と呼ばれる独特の大肌を特徴としています。

写真 3 安養坊道心塚・佐々成政剃髪阯
戦国時代末期、富山城の城主・佐々成政は織田家への忠節から羽柴秀吉・前田利家らと対立、天正13年(1585)、秀吉の大軍に富山城は包囲されました。「籠城して戦う」道もあったのですが、民衆を再び悲惨な戦に巻き込みたくないとして、恭順の意を示すため呉羽山のふもと(安養坊)で髪を剃り、墨染めの衣に着替え、白鳥城に陣取る秀吉に降伏を申し出て許されました。大坂城にお伽衆として出仕した後、秀吉の九州出征に同行、肥後(熊本)の国主に任命されましたが、同国で勃発した一揆の責任から1年後、尼崎の法園寺で切腹させられました。成政の死を知った越中の民衆はひどく悲しみ、ここに剃髪を埋め、道心塚をつくり、その菩提を弔ったと言われています。

写真 4 長慶寺
曹洞宗長慶寺は天明6年(1786)、新川郡塩野よりこの地に移し開山されました。当山一帯は桜谷と呼ばれ、風致に富み、城下の人々の行楽の地でした。花の頃には「山いき」と称する行楽の人々で賑わいました。山号の任羅陀山(地蔵菩薩の浄土の名)に示されるように、かつては「桜谷の大仏」といわれた金銅の地蔵大仏が建立され、その後に境内に設置された五百羅漢石像とともに信仰を崇めました。大仏は明治の廃仏毀釈により失われましたが、現在は信者より寄進された大仏頭が本堂内左側に安置されています。

写真 5 五百羅漢
長慶寺の境内、山腹を背に富山の町を見守って立つ五百有余の五百羅漢像があります。江戸時代後期、富山で米穀商と廻船問屋を営む黒牧屋善次郎という豪商は信仰心が篤く、長慶寺へしばしば詣でました。仏恩に報いたいと思い立ち、佐渡の石工に羅漢像を彫らせ、北海道へ米を運んだ帰りに持ち帰り、木町の浜で陸揚げしてここまで運びました。元禄以来の町人の台頭は経済圏を拡大し、いつの時代も共通する人々の信仰心が五百羅漢の建造を可能にしたものと思われます。なお五百羅漢は昭和46年3月、富山市指定文化財に指定されています。

写真 6 筆塚と人丸塚
長慶寺のやや奥に「志留丸塚」と「筆塚」があります。かつてここは、妙意が峰と呼ばれ見晴らしのよい場所でしたが、現在は竹薮で視界が遮られています。寛政8年(1796)に石見国の人麻呂大明神(歌聖柿本人麻呂)の社殿の土をこの桜谷に移して祠が作られ、当時の文化人が尊崇したといわれています。寛政10年、8代藩主前田利謙の生母自仙院佳子がこの桜谷長慶寺で遊び、桜谷八景の歌を詠んで、人麻呂の祠に奉納したという記録があります。明治3年(1870)の合寺令でこの祠はなくなりましたが、現在「志留丸塚」(柿本人麻呂)と筆塚が残っています。なお、祠に安置してあった人麻呂像は今は長慶寺に安置されています。

写真 7 富山市民俗民芸村
昭和40年の民芸館の開館に始まり、民芸合掌館、民俗資料館、考古資料館などを設置、昭和54年11月、市制90周年を記念し、これらを一つの文化集落として民俗民芸村と命名しました。その後も、陶芸館、茶室丸山庵、売薬資料館、管理センターを設置し、平成元年10月、市制100周年を記念して篁牛人記念美術館を開設しました。

写真 8 尾山三郎市長の銅像
明治21年富山市生まれ。富山県の近代消防の育ての親ともいわれ、大正10年富山市議会議員、昭和2年には県議会議員に当選。戦後の昭和22年には初代の公選富山市長となって、戦災に遭った市街地の復興に努めました。後に、参議院議員の重責に任じ、国政に寄与しました。(昭和36年6月に建立)

写真 9 呉羽山展望台・佐伯有頼像
白鷹と熊に導かれて立山に踏み分け立山開山の祖といわれる佐伯有頼の少年像が、開山1300年にあたる平成13年(2001年)、絶好の立山ビューポイントの地に建立されました。少年が山を開いたという童話のような伝説を持つ山は立山だけで、かつて越中(富山)の少年たちは町々村々から隊を組んで立山に登り、これにより初めて社会的に成人と認められました。そのため子供たちは幼少から立山登頂を目標にして、体も魂も強く、心清らかに育てられました。

写真 10 昭和天皇の歌碑
昭和天皇は摂政時代の大正13年11月に富山にご来県。11月3日埴生野(現在の小矢部市)から立山連峰の壮観に感動され、翌14年の新年歌会始に「山色連天」の勅題のもとに「立山の空にそびゆるをおしさに ならえとぞおもふみよのすがたも」と詠まれました。天皇が、立山のあの雄大な姿に日本の国、世の中の姿も見ならってほしいとまで褒め称えたのは立山だけでしょう。御製の歌碑は昭和33年の「とやま国体」のためのご来県を記念して、建てられました。

写真 11 大正天皇の漢詩碑
昭和天皇の歌碑の隣には,「大正天皇漢詩碑」が建っています。大正天皇は、皇太子時代の明治42年に北陸地方に行啓、多くの訪問・謁見をこなされ、10月1日の夕刻、魚津より富山駅にご到着。日没前に急遽、呉羽山公園へ登られることになりました。この日は前日とは打って変わって見事な秋晴れ。この呉羽山行は良き思い出として残ったのでしょうか、後日、漢詩「登呉羽山」を富山県に送付しておられます。最初の碑は、昭和26年に建立されましたが、石碑の一部が剥落するなどしたため、平成14年に再建されました。

写真 12 高崎正秀博士の歌碑
富山市太田出身の国文学者(国学院大学教授)で歌人であった高崎正秀博士が昭和47年の歌会始に召人として奉仕した時の歌が自筆で刻まれています。
「たたなはる山青垣もかがよひて今あらた代の朝あけ来る」

写真 13 小又幸井の句碑
小又幸井は県出納長の後、富山市助役になった行政マンで、県歌人連盟の会長も務めていました。
「朱にしみ朱にきはまり夕づく日大立山の峰々照らす」と、立山の夕映えの美しさを詠んでいます。

写真 14 大伴家持の万葉歌碑
立山を開いた佐伯有頼に対し、立山を初めて歌にして書きとどめたのは「万葉歌人」である大伴家持です。家持は、越中国司としての在任期間中に立山の残雪の美しさに感動して、
「立山に降りおける雪を 常夏に見れどもあかず 神からならし」
と褒め称えました。大伴家と佐伯家とは同族の間柄です。

写真 15 豊栄稲荷神社
富山藩2代藩主・前田正甫公が現在の星井町に社殿を造営し、伏見稲荷大社の分霊を祭って五穀豊穣と殖産振興を祈願した神社。現在の社殿は昭和49年10月に完成しました。薬祖社には医薬の守り神である少名彦神と前田正甫公をはじめ、万代常閑、松井屋源右衛門ほかの富山県薬業振興の始祖たちを祭っています。また、成就天満宮は前田家の始祖で学問の神様と仰ぐ菅原道真公を祭り、呉羽社は伏見稲荷大社と創建された秦伊呂具公(秦始皇帝の子孫)と、応神天皇の時、百済から帰化して呉羽山に住み、地方の子女に練絹技術を教えた呉服女(くれはとり)と綾服女(あやはとり)を祭っています。

写真 16 高市黒人の歌碑
高市黒人は、大伴家持より50年くらい前の人で、万葉集にも採録された第一級の歌人ですが、経歴はよく分かりません。旅を詠んだものが多く残されています。
「婦負の野の薄押しなべ降る雪に宿借る今日し悲しく思ほゆ」と、降りしきる雪の夕暮れに、北陸路をゆく旅人の心細さが伝わってきます。昭和29年に建立されたこの歌碑は風化が進み、判読が難しくなっています。

※参考文献 神通川と呉羽丘陵 ふるさとの風土 廣瀬 誠著(桂書房刊)


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