富山でクリーニング業を営み、今年で100年を迎える有限会社日の出屋クリーニング。長きにわたる経営の中で、大切に守られてきたこと。また、革新の歴史など、100年続く経営の秘訣について、4代目で代表取締役社長の森川敬介さんにお話を伺いました。
富山での西洋クリーニングの先駆け
有限会社日の出屋クリーニングは、明治43年に富山市三番町で、西洋洗濯屋「日の出屋商会」として創業したのが始まりです。初代で、現社長の敬介氏の祖父の森川宇治郎さんが横浜で西洋クリーニングを学び、富山で開業。裁判所の役人など、主に当時のホワイトカラーを相手に商売を始めたといいます。「富山のクリーニング業界の中でも、現在も続いている店としては最も古い方ではないかと考えています」と語る森川社長。
大正10年には店をいったん上市へ移転しますが、すぐに富山市内に戻り、市内の諏訪川原にて開店。大正13年には、さらに丸の内へと移転します。
その後、宇治郎さんの長男の哲春さんが2代目として店を継ぎますが、戦争で亡くなります。そこで、宇治郎さんの3男で、現社長の父の義信さんが家業を継ぐことになりました。
この頃の日の出屋を支えたのが、宇治郎さんの妻・ミヨさんをはじめとする女性達でした。哲春さんや義信さんが招集されている間も、ミヨさんは娘と2人の嫁とで力を合わせて商売を続けたのです。正に、「銃後の守り」でした。
寝る間も惜しんで
日の出屋の3代目となった義信さんは大正3年生まれ、甲種合格で近衛連隊に選ばれたほど体格も良く、2・26事件にも遭遇したというエピソードの持ち主です。その後、第二次大戦で陸軍に招集され、戦争終了時にはマレーシアで捕虜になります。しかし、無事に富山に帰郷することができ、戦後すぐにクリーニングの仕事を始めたそうです。戦後復興を始めた富山での商売は順調で、昭和22年には業務拡張のため、富山市東町に工場を設立しました。昭和23年には、現社長の敬介氏が誕生しています。
「私が幼い頃のことで記憶しているのは、父は当時、中学を出たばかりの住み込みさんや従業員を雇い、仕事を教えながら一緒に生活していたこと。とにかく父は真面目で、朝も暗いうちから仕事を始め、寝る間も惜しんで働いていました」
体を掛けて、一所懸命仕事に打ち込む父の背中を幼い頃から見ていた敬介氏は、その過酷さから、将来はクリーニングの仕事だけは、やりたくないと思っていたそうです。
ドライクリーニングへ
昭和30年代初め、日の出屋ではドライクリーニングの機械を導入します。当時小学校1年生だった森川社長は、次のように振り返ります。
「ドライクリーニングを始めたのは、富山でも早い方だったと思います。それまではすべて水洗いしていましたからね。やはり素材の風合いを活かすという点では、ドライクリーニングは仕上がりが違います。その他にも思い出すのは、我が家は車やテレビ、電話なども早くに購入していたため、電話を借りに来て10円を置いていくご近所の方がいたり、昭和34年の当時の皇太子ご夫妻の結婚の際には、皆さんが集まってテレビを見たことなどですね」
昭和41年には、事業拡張のため、富山市天正寺に土地を購入し工場を移転。その後も順調に売上を伸ばしていきます。
「父は、一般家庭の品物と、主に飲食関係の従業員の服のクリーニングを手掛けていました。ただ、父は職人気質で、直接お客様の顔を見て品物を預かり、お届けするという仕事のやり方を大切にしていました。店主の顔が見える仕事を守りたいと考えていたため、たくさんお店を増やすということはなかったのです」
新設備を導入し法人化へ
やがて時を経て、成長した敬介氏が仕事を手伝うようになります。敬介氏が結婚したのは昭和59年のこと。時代の流れもあり「父のやり方では、将来、経済的に自立していくことは難しい」と判断。一時、じゅうたんのクリーニングをやろうと、独自の判断で設備・機械を導入しました。ところが、洗った絨毯を干すことは想像以上の重労働で、2年程で断念します。
しかし、この時に広くした工場の設備を活かし、今度は病院や、毛布のクリーニングを手掛けようと考えました。県内の大手業者に、何度も営業に足を運んでも、当初はなかなか受注できなかったとか。でも、少しずつ注文が入るようになり、昭和62年には有限会社日の出屋クリーニングとして法人化し、敬介氏が社長に就任します。
「最初は営業も仕事の工程の仕組みづくりも大変でしたが、大手業者が取り扱う病院や各施設のリネン類を扱うようになって、順調に業績を伸ばすことができました。それと並行して、外食産業の従業員の制服や、機械・車関係の作業着、医療関係者の制服など、業務用のクリーニングを手掛けるようになったのです」
現在では、業務用の仕事が8割を超えているそうです。
「妻が、家事と子育てしながら、経理事務のほか現場作業までも一緒になって頑張ってくれたからだと感謝しています」
選ばれ続ける理由
日の出屋がお客様に選ばれる理由を伺うと、「汚れをきちんと落としたキレイな仕上がりはもちろんのこと、常日頃の信頼関係と、コミュニケーションを大切にしているからでしょうか」と、森川社長。
「クリーニングは、扱う素材や生地の劣化によって、どうしてもトラブルが起きやすい仕事です。でも、私はトラブルが起きた時こそ、お客様との信頼関係を作るチャンスだと捉え、誠実な対応と、責任ある行動をモットーとしています」
そして、いろんな仕事のレパートリーを持つ事で、好不況にかかわらず、多彩なお客様と様々な接点でつながっていきたいと、今後の抱負を語ります。
この春から定年制を撤廃
クリーニング業は、機械や設備への投資が必要であり、熟練した社員の経験値も必要な仕事。やはり継続性が大事と考え、同社ではこの春から定年制を撤廃しました。
「クリーニングの仕事内容そのものは大きく変化したわけではありませんが、対象となる素材が大きく変わってきましたね。また、同じ素材でもデザインも加工の仕方も変わっているため、それを見極める知識や経験値が必要なのです。私達には何百枚の仕事も、お客様にとっては大切な一着です。常に気持ちよく着ていただけるよう、丁寧な仕事が要求されます。フルタイムでなくてもいいですから、経験を積んだ社員に自分の働きやすい時間帯で働いてもらい、仕事の質を上げていきたい。そのために柔軟な就業体系を作ることにしたのです」
働く側、経営側双方にとって、メリットのある職場環境づくりを目指す一方で、同社はハンディキャップをもった人も雇い、一緒に働く事で、お互いの理解を深めようとしています。
「これは父の代から続けていることです。人間が『おぎゃあ』と生まれたら、いろんな人がいることをお互いに認め合い、一緒にやっていくことは当たり前のことではないでしょうか。経済や効率優先だけではない部分もあっていいと思うのです。社会貢献といった大げさなものではなく、人はいろんな矛盾を含みながら、一緒にやっていくのがいいのだと思います」
明日も日は登る
100年続いた理由を伺うと、「常に現在を前向きに捉え、明日を考えて車を走らせてきたというところはあると思います」と答える森川社長。
「『なせばなる』を信条に、明日をどうするか、将来をどうするかを考えるだけですね。最近思うのは、人生は捨てたものではないということ。ものごとは最初から計画通りにはいかないし、例えいろいろあったとしても、考え方、捉え方次第でがらりと変わるものです。ダメなものがダメでなくなったり、プラスの新しい芽が出てきたり、それにはもちろん努力も必要ですが。とにかく日々、明日を考えています」
昨今の不況の中でも、常に発想を柔軟に、前向きに、次の一歩を考えてきた森川社長。経営革新を続けながら、明日の日の出を目指していくことで、100年にわたる歴史が着実に刻まれていきました。ホームクリーニングができる洗剤や衣類の登場で、家庭でも気軽にクリーニングができる時代となりました。しかし、プロにしかできない技術やノウハウを蓄積し、顧客の信頼を得る仕組みづくりと経営は、これからも続けられていきます。
有限会社日の出屋クリーニング
本社工場 〒930-0952 富山市町村1-49 TEL:076-421-5386
本 店 〒930-0955 富山市天正寺547-1 TEL:076-421-6171
●主な沿革
明治43年(1910) 富山市三番町で初代宇治郎さんが西洋洗濯屋「日の出屋商会」を開業
大正10年(1921) 富山市諏訪川原で開店
大正13年(1924) 富山市丸の内へ移転
昭和22年(1947) 事業拡張のため富山市東町に工場設立
昭和41年(1966) 事業拡張のため富山市天正寺に工場移転
昭和62年(1987) 有限会社日の出屋クリーニングとして法人化
平成7年(1995) 富山市町村に工場移転。本社工場となる。
平成13年(2001) 富山市開に、コインランドリー「ララ・ドリーム」とクリーニング取次所「おしゃれしま洗科」を開店
平成15年(2003) 「おしゃれしま洗科」を、リフォーム&クリーニング「ウィズ」に改装開店