会報「商工とやま」平成22年8・9月号

特集2
平成22年度創業100年企業顕彰その2
手作りの和ろうそくの温かさと、伝統の技を伝えたい
松住商店



 富山市中野新町で、伝統の和ろうそくを製造し続けて100年を迎えた老舗ろうそく店「松住商店」。手作りの和ろうそくの良さを守り、次世代へ伝えようとする同店の歴史とあらたな取り組みについて、3代目の松住利春さんと、妻の晶子さんにお話を伺いました。



古鍛冶町でろうそく店を開業


 松住商店は明治43年、初代の清次郎さんが、柳町にあった本家から分家して古鍛冶町でろうそくの製造販売を始めたのが始まりです。

 「本家もろうそく店を営んでいました。祖父の清次郎は五男だったので結婚を機に独立し、祖母のやいとともに23歳で商売を始めたと聞いています」と語るお二人。

 清次郎さんは若くして小笠原流礼法の免許皆伝を許されたほどの努力家で、しかも几帳面だったとか。独立後の商売も順調で、大正15年には店舗を現在の中野新町の市電通りに移転し、新装開店します。

 「土蔵造りで、間口も奥行きも広い中庭のある2階建ての家を購入して新店舗にしました。店先には毎朝、山のなかに清次郎の「セ」の文字が入った青い暖簾と、真鍮で作った大きな円柱形のろうそくを下げて、店のシンボルとしていたようです」

 常時2〜3人の弟子を育てながら、毎日早朝からろうそくを製造販売していた清次郎さん。店の周辺には寺町があり、お寺で使用するろうそくの注文が数多く入りました。また、和ろうそくだけでなく、西洋ろうそくも製造し、問屋にも、たくさんのろうそくを卸していました。ろうそく以外にも、戦前から、のしや和紙、化粧品、小間物なども扱っていたそうです。

 仕事一筋で懸命に働いた清次郎さんは昭和11年に49歳で亡くなり、長男の清一さんが後を継いで2代目の清次郎を襲名することになりました。同年には、後に3代目となる利春さんが誕生しています。


富山大空襲で店舗が焼失


 戦争中は、通常の和洋のろうそく以外に、軍の注文で南方の前線で使用するための携帯型西洋ろうそくを製造していました。しかし、清一さんも招集され、軍の注文があるときは名古屋大学に進学していた清一さんの弟の清文さんが富山に戻り、店を手伝っていたそうです。やがて戦況が激しくなると、大切な機械や道具類は疎開させていました。そして、昭和20年8月1日の富山大空襲によって、店舗は全て焼失してしまいます。その日のことを利春さんは次のように覚えています。

 「祖母の里の婦中町に疎開していたのですが、その日、家が心配になり祖母と中野新町に来ていました。叔父に、今日は危ないからすぐ帰れと言われたのですが、その日の夜中に空襲が始まったのです」

 利春さんもやいさんも、そして叔父の清文さんも逃げて無事でした。清文さんはリアカーを引き、ラジオを持って熊野方面まで逃げたとか。そのラジオは今でも残っているそうです。

 「空襲で店舗は全焼してしまいましたが、父は中国から帰ってくる最中に終戦を迎えたため、日本に早く帰ることができました。また、大切な機械や道具類はすべて疎開させてあったため比較的早く商売を始めることができたのです」

 焼け野原となってしまった富山の中心市街地でしたが、昭和22年には店を再建することができました。


仕事は見て覚えるもの


 現在の当主で3代目の利春さんは昭和11年生まれで富山高校へ進学。父の清一さんは利春さんを大学へ進学させたいと考えていました。一方の利春さんはカメラに興味を持ち、高校時代は写真部に所属。本当はカメラの道へ進みたいと思っていたそうです。しかし、長男であることなどから、家業を継ぐことになりました。

 高校卒業と同時に、利春さんはろうそく作りを学び始めましたが、父の清一さんは、細かく教えたりすることは一切ありませんでした。

 「18歳から20年ほど、父と一緒に仕事をしましたが、父は、仕事は見て覚えるものという考えでしたね。私自身も息子にはあまり教えることはありません」

 晶子さんも、清一さんとの思い出について次のように語ります。

 「私は昭和39年に嫁いできましたから、父がなくなるまでのわずか10年程の短い期間でしたが、言葉で多くを語るのではなく、自分で悟るということを大切にしていた人だったと思います。ただ、言われたのは、商売は「商い」と書きますが、人に「飽きられないこと」が大事だということ。長くお客様に来ていただけるような店であることの大切さを教えてくれたのだと思います」

 昭和48年に清一さんが亡くなり、利春さんが3代目を継ぐことになりました。利春さんは、伝統の和ろうそくの製造を続け、昭和62年には富山市技能勤労者表彰も受賞されています。


新たな試み「絵ろうそく」


 平成元年からは4代目となる息子の英樹さんが店を手伝い、手描きの絵ろうそく作りを始めています。また、特徴ある店づくりをしようと、15年前から同店では和ろうそくのみを製造しています。

 絵ろうそくは、大小さまざまな和ろうそくに、水性のアクリル塗料で様々な花や季節の風物を描いたもの。もともとは、山形県の鶴岡で、冬場に仏様にお供えする花が少なかった事から始まったものだとか。大正から昭和初期にかけては、転写による大量生産で絵ろうそくが作られていて、同店でも取り扱っていました。しかし、英樹さんは手作りの和ろうそくの良さを生かそうと、独自の手法で手描きでの絵付けを始めました。かわいらしい花々が描かれた絵ろうそくは、いまでは同店の人気商品となっています。また、オリジナルで自分だけの絵柄を注文することもできるそうです。

 「絵ろうそくを使うことで、ご先祖様を敬う意味でも、より真心のこもったご供養ができますし、お食事会やお部屋のインテリアとして、日常生活の中でも、もっと多くの方に楽しんでいただきたいですね。ろうそくの灯りには癒し効果があります。ろうそくのもとで本を読んだり、物思いにふけったり、極上のリラックスタイムを過ごしたりしてみるのもお勧めです。最近では、若い方が贈り物やお土産として購入されることも多いんですよ」と話す晶子さん。

 和ろうそくは芯が太いため、炎も大きく、独特の揺らぎを楽しむことができます。慌ただしい日常のなかでも、風合い豊かな和ろうそくを灯して、スローな時間を過ごすのも格別です。

 また、平成20年からは同店ではまちの駅「和ろうそくの駅」となり、絵付けの体験教室や様々なイベントなども開催しています。手作りの楽しさ、和ろうそくの魅力を発見していく方も多いとのこと。3名様からの予約を受け付けています。皆さんも一度、体験してみませんか。


次世代に和ろうそくの温もりを


 松住の和ろうそくは、すべて人の手の感触で作られていく、伝統の製法を守っています。長く続けられたその理由を伺うと、「やはり多くの皆さまに支えられてきたおかげ」と話す晶子さん。そして、まちの駅や富山商工会議所の産業観光等の活動によって、和ろうそくを知ってもらうきっかけが増え、新しい発想が生まれ、今、和ろうそくは様々なシーンを演出しています。「皆さんに喜んでもらえることが励み。そして何より、そのような活動に誘っていただいたこと、お世話して下さっている皆さんに感謝しています」とも。

 同店では、より多くの人に和ろうそくの良さに触れ、日常の中で生かしてもらいたいと、これからも新しい提案を続け、伝統の技の継承に努めていきたいとのことです。

 手作りでしか味わえない温もりとオリジナリティに、今後もぜひ注目していきたいものです。皆さんも、手作りの和ろうそくの灯りを、ゆっくりと楽しんでみませんか。




●松住の和ろうそくとは
 五箇山和紙を巻き棒に巻き付けたものを中心に、奈良県大和郡の「いぐさ」の細い芯で燈心を巻き付け、それを生糸の真綿で巻いて止め、その後、巻き棒を抜き取ります。

 竹串にさした芯を、溶かしたろうに浸して素早く引き上げ、くるくるとまわしながら冷やして均一にろうを着けて、木の年輪のように何層にも重ねて大きくしていきます。同店の和ろうそくには並型とバチ型があり、バチ型は頭の方を大きく張り出させた形となります。

 季節によってろうが冷えて固まるまでの時間が異なるため、様々な気候条件下でも常に同一の商品に仕上げるには、熟練の技が必要です。

◆松住商店
富山市中野新町1丁目3番31号  TEL:076-421-4427  FAX:076-421-4487

●主な沿革
明治43年(1910)  初代松住清次郎が柳町本家より分家・古鍛冶町でろうそく製造販売を開始
大正15年(1926)  店舗を市電通りの中野新町の現在地へ移す
昭和17年(1942)  軍部の指示により南方前線で使用する、携帯型西洋ろうそくを製造
昭和20年(1945)  8月1日の富山大空襲で店舗を焼失
昭和22年(1947)  同地に再建、現在に至る
平成5年(1993)  絵ろうそく体験コーナー設置(要予約)

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