明治40年創業の山口株式会社は富山市問屋町の入口にあり、諸官庁・学校・企業などのユニフォームを主力に、雑貨・ギフト用品の取り扱いをしています。代表取締役社長の廣瀬繁さんにお話を伺いました。
始まりは古着商
山口株式会社は、明治40年に先代・山口仙太郎さんが富山市平吹町で開業した古着商が始まりです。その後、長男・清一さんが誕生。物心がついた頃から古着に親しみ、商売をすることを間近で見てきた清一さんは、富山商業学校を卒業後、メーカーからラシャ地を仕入れて販売するラシャ問屋の道に入ります。より付加価値の高い商売をしようと、妻・サヨ井さんと夜通し生地を裁断し、市内で4、5軒の家で縫製してもらった衣服も販売しました。
昭和7年には富山市西町でラシャ問屋「山口商店」を開業。ちょうど、宮一大丸(旧大和富山店)が開店した年です。当時は清一さんが商品化した「マント」や「トンビ」等が好評で、遠く岐阜県神岡町辺りまで売り歩いたそうです。
既製服の需要増に伴い、同11年には富山市東田地方町に約30台のミシンを有する工場を建設。生産・販売体制が整うと、県外への足がかりをつけ、業績は順調に推移していきました。
困っている多くの人々のために
昭和14年、清一さんは父を亡くし、「商いの道を与えてくれた父への恩返しのために、何がなんでも東京や大阪に店を持つ卸問屋になろう」と心に決め、仙太郎を襲名します。
第二次世界大戦時には設備と技術の実績が認められ、陸軍の軍服縫製を主とした軍需工場に指定されると学徒動員を受け入れて忙しい日々が続きました。個人経営としての限界が見え、同19年には資本金45万円で北陸被服工業株式会社を設立。同時に富山市岩瀬に木造船の建造修理を行う富山造船株式会社を設立し、2代目・仙太郎さんは企業経営にも乗り出しました。
同20年8月1日の富山大空襲で自宅や工場を焼失。幸いにも家族は無事で、一部疎開させていたミシンが残りました。衣服がなく困っている多くの人々のために何とかしようと、物資が不足する中でミシン工場の再建に奔走。戦前から続く割当配給制度により、北陸被服工業では生地の支給を受け、配給用作業衣やシャツの縫製をしていました。
笑顔をなくした人々に楽しみを
昭和20年11月、大和の6階で小さな映画館が開かれ、3日間の無料開放に連日大賑わいとなる出来事がありました。戦争の混乱で笑顔をなくした人々が求めるものは何だろうと考えていた仙太郎さんは、それが娯楽だと気づき、同21年2月に中央映画劇場株式会社(後の中央映画興業株式会社)を設立。富山市西町(山口商店の跡地)には洋画専門館、同中央通りには邦画専門の富山映画会館(とやま109ビル)、高岡には高岡セントラル劇場をつくり大変な話題になりました。
念願の東京・大阪への進出
昭和22年、北陸被服興業株式会社は東京日本橋に東京事務所、大阪淡路町に大阪支店を設け、先代からの念願だった東京、大阪への進出を果たしました。後に仙太郎さんは「もし自分が商売以外に没頭するような趣味でも持っていたなら、こんなに早くは実現できなかったのではないか」と語っています。
この頃は洋服への転換期にあたり、特に女性用下着が爆発的に売れました。商売で得た利益を使う術を知らない仙太郎さんは、終戦間際に生活必需品の価格が暴騰する一方で取得しやすくなっていた土地を次々に購入。「そのうち何かの商売に使えるだろう」と、富山市内だけでなく東京や大阪でも不動産を増やしていきました。これが後に大洋不動産株式会社の発足につながっています。
新しい編立「トリコット」
東京や大阪へ行き来する機会が増えると、新しい物や情報がいち早く入手できるようになります。今までの木綿と違う、絹のような肌ざわりのトリコット生地に出合うと直ぐにその編機10台の導入を決め、昭和22年にトリコット事業に進出。トリコットとは経メリヤスと言われる細い畝のある編み地のことで、肌着・シャツ・靴下などに広く利用されています。ほかにも県内企業が数社、この時期に参入したことで富山県が経編の産地と言われるようになったそうです。
同24年にはトリコット事業の生産部門として富山経編興業株式会社(富山市大泉町)、卸部門として株式会社山口商店(富山市堤町通り)を設立。しかしトリコットは編立技術が難しく、認知度がまだ低かったこともあって苦しい時期が続きます。「三本の矢」の教えに倣い、北陸被服工業、富山経編工業、山口商店を集約して同26年に山口株式会社を設立。後にトリコット部門が軌道に乗ってくると山口ニット株式会社とし、ジャージ生地の丸編部門をタイヨーニット株式会社として独立させ事業展開しました。
食品を扱う大型スーパーを開店
一方では流通革命の流れに乗って、昭和38年に、富山市中央通りに売り場面積825Fの食料品、日用品を扱うスーパーを出店しています。山口株式会社スーパー部として始めたこの事業は、後に株式会社タイヨーとして独立。同63年にはダイエーとの連携により南富山に郊外型大型店を出店すると、富山の商業地図を一変させたと大きな話題になりました。
富山に山口あり
山口ニット、タイヨーニットは日本でも有数のニットメーカーへと成長し、仙太郎さんは昭和34年には富山県経編メリヤス工業組合の理事長に就任。同45年には日本経編メリヤス工業組合連合会副会長、同55年には日本ニット工業組合連合会副理事長を務め、「富山に山口あり」と言われるくらいにその名が知られていたそうです。同57年にはニット業界への貢献が認められ、勲五等双光旭日章を受賞しています。
現社長の廣瀬繁さんは昭和42年に山口株式会社へ入社し、平成21年の社長就任までユニフォームの仕事にずっと携わってきました。山口株式会社を主軸に、不動産、娯楽、流通など幅広い事業を手掛ける山口グループを、一代で築き上げた2代目・仙太郎さんについて、次のように語ります。
「事業意欲が旺盛で、新しい分野にも果敢にチャレンジし、行動力がありました。『利は元にある』が口癖で、消費者が何を求めているか常にアンテナを張っていたのだと思います。これだと思うと、儲かるかどうかは後回しで『とにかくやってみよう』と新しい分野にも挑戦しながら勉強していく人でした。手掛けた事業の全てが上手くいったわけではありませんが、時代を読む力というか、人々が欲するものを提供することに関して、先見の明があったのだと思います」
仙太郎さんの思いはしっかりと受け継がれ、社員一人ひとりが常にアンテナを張って新しい商材の発掘や提案力に繋げています。「社内はもちろんのこと、取引先との連携も深めながら、よりお客様に喜んでいただける提案ができる会社であり続けたいと思っています。平成21年7月には伏木海陸運送株式会社グループ入りしており、今後は富山県呉西エリアの営業強化と更なる発展を目指します」と廣瀬さんは力強く語ってくださいました。
社員との心のつながりを
社員と苦楽を分かち合い、一致団結して事に当たろうとする仙太郎さんの思いが、社内報「やません」の創刊号(昭和36年)で次のように綴られていました。
「(社内報は)会社と従業員の心の広場としての役割、更には家族の者もひっくるめた全員の精神的つながりをより強いものにすることが最大のねらいではないかと思う」
仙太郎さんがこれほど多方面に事業を展開できたのも、社員との信頼関係があってこそ。それが、山口株式会社が長い歴史を歩み続ける力の源だったのではないでしょうか。
山口株式会社
富山市問屋町2-7-18
TEL:076-451-1181
取扱商品/ユニフォーム総合、男女各制服、諸官庁・学校制服、ワーキングウェア、雑貨・ギフト用品
●主な社歴
明治40年 先代・山口仙太郎さんが富山市平吹町で古着屋を開業
昭和7年 長男・山口清一さんが富山市西町でラシャ問屋「山口商店」を開業
昭和19年 山口商店を法人化し、北陸被服工業株式会社を設立
昭和24年 富山経編興業株式会社設立、株式会社山口商店設立
昭和26年 北陸被服工業・富山経編興業・山口商店を合併して、山口株式会社を設立
平成21年 伏木海陸運送株式会社グループ入り