富山市で200年以上にわたり綿や寝具を扱ってきた株式会社平野綿行。現在の当主である代表取締役の平野安治さんに、お店の歴史や、長きにわたり続けてこられた商売の極意について伺いました。
文化年間の創業
平野綿行は文化年間以前に打綿屋(綿屋)として創業。
「はっきりした記録は残っていませんが、昭和38年に父の安平が160周年記念の売り出しをしていますので、それから考えると、今年で210年になりますね。私はこの店では四代目ですが、その前に、本家、総本家が綿屋をしていて、曾祖父が本家から仕事を受け継いで、商売を始めたと聞いています」と話す安治さん。
綿の取扱いや、打綿と言われる綿の打ち直しなどが中心の商売から、第2次大戦後は布団の販売も一貫して手掛けるようになりました。
「綿の加工をする綿屋と、布団屋はもともと別の商売で、洗い張りをしたり、中に綿を入れて仕立てる仕事は布団屋の仕事でした。その後、機械の進歩や利益の面などからも、父は綿屋と布団屋の両方をするようになったんですね」
富山大空襲で大和や電気ビル、県庁を残し、焼け野原となった富山市中心部。堤町通りにある住居兼店舗も当然ながら焼けてしまいました。しかし、終戦後は、まちの復興とともに、商品が飛ぶように売れる時代へ。安平さんの努力で、現在の店の基礎が築かれていったと言います。
安平さんは明治44年生まれ。戦後結婚し、四代目となる安治さんをはじめ3人の子供をもうけました。そして柔道8段の腕前で、柔道の師範代や消防団の分団長を務めるなど、がっしりと体格の良い人で、人望も厚く、地域のために尽くした人物でした。
現社長の安治さんは、昭和30年に長男として誕生。富山市中心部の商店街が大いに賑わっていた時代に生まれ育ちました。
「一番賑わっていた頃のまちなかの思い出と言えば、やはり中教院通りの夜店ですね。中央通りには本屋、映画館、喫茶店、飲食店など、時代の最先端を行く、ありとあらゆる業種のお店があり、いずれのお店もグレードが高かったですよね。
また、当時は商売をやっている人もここに住んでいましたからね。バブルの頃から敷地を店舗として目一杯使うという目的もあって郊外に住むようになったと思うのですが、人が住まなくなると、地域活動もしにくくなりますし、商売も寂しくなっていきましたね。私が大学を卒業する前後、昭和52年頃が賑わいのピークだったのかも知れませんね」
その後、ファボーレやイオンモール高岡などができて人の流れが一気に変わり、客足が大きく減ったと感じたそうです。
大阪での修行を経て富山へ
安治さんは東京の大学を卒業後は、取引先であった大阪の綿の布団屋で2年間、住み込みで修行しました。
「大丸に布団を納めていた会社で、従業員も50〜60人はいました。私自身、中学、高校、大学時代と父の仕事の手伝いはしていましたが、配達や力仕事が主で、本格的に原料から布団に仕上げるまでの工程を学んだのは初めてでした」
原綿はアメリカやインドなど産地によって特徴も異なります。エジプト綿などは布団よりも、高級なワイシャツや洋服に向いているとか。
「一種類の綿だけでは膨張率が同じになってしまいます。数種類の綿を混ぜていくことで、繊維の膨張率の違いから、膨らみがでてきます。すべて一から教わりましたね」
修業時代は倉庫の2階に寝泊まりしていたのですが、裏が休耕地のため、夜には大量のヤブ蚊に悩まされ、眠れない日が続きました。卒業後すぐのことですから持っていたお金はわずかで、最初の給料日まで蚊取り線香も買えなかったことも今となっては良い思い出です。しかも眠れない上に、三食の食事も最初は遠慮していたため、1カ月で体重が10キロも減ったとか。しかし、やがて仕事にも生活にも慣れると、持ち前の明るい性格で、先輩たちからもかわいがられ、遠慮せずに食事ができるようになりました。
「富山に戻ってきたのは昭和55年頃。量販店やスーパーも進出してきた頃で、寝具も値段的には、相当安くなっていました」
時代の大きな流れの中で、人々の寝具への意識も変わっていきました。
こだわりの商品を揃えて
「昔は、寝具は高級品で、婚礼のときに揃える、ある種、財産のようなものでした」と話す安治さん。やがて、羽根布団や多彩な商品が出てくるようになり、布団の単価が下がり、布団は「財産」ではなく、「実用品」へと変化していきました。
「現在では安い大量生産の商品が流通する時代になり、商品へのこだわりがなくなってしまったのではないでしょうか。でも、そんな時代だからこそ、私は、逆の発想をしたいと考えているんです。
なぜなら、いいものを求めているお客さまは必ずいらっしゃいます。いつでも、それにお応えできるお店でありたいものですね」
例えば、高品質な絹のカバーの座布団ひとつにしても、在庫がなければすぐに品物を取り寄せ、数種類から選んでもらえるようにしています。
「あるとき、ロシア人の女性が絹のダブルサイズの布団カバーを探しに来店されたことがありました。デパートにもなかったから、やっぱりありませんよねと言われたのですが、すぐに探してご用意しました。ロシアの習慣で夏は絹の寝具を使うそうです。何枚もお買い上げいただき、数十万円になったのですが、ニッチな商品の需要は必ずあるという例ですね。
お客さまを通して、たくさんの新しい発見がありますし、今後も他にはない、きめ細かな対応をしていきたいと考えています」
柔軟な発想でまちに賑わいを
今後は寝具だけでなく、例えば農作物を扱ったりすることも面白いのではないかと話す安治さん。長年の経験から、一つのことにこだわらず、誰も思いつかないような柔軟な発想で商売に取り組んでおられます。
また、お店は「まちの駅」となっており、休憩スペースや無料のギャラリーとしても活用されています。そのほか、富山のガラス作家と富山市中央通商栄会青年部がコラボして店舗でガラス作品を展示販売する「スゴロク」などの取り組みも毎年実施しています。
最近では西町や中央通り周辺にはマンションが次々に建ち、旧富山大和跡地にはガラス美術館や図書館などが入る再開発ビルの建設工事が進められており、まちなかに住む人や訪れる人が増え、人の流れが変わることが期待されます。
いつも面白いネタを探して
安治さんのユニークなところは、いつも面白い話のネタを探しているところ。昨年、店舗前で車同士の事故があり、車が店に突っ込むという事件がありました。幸いけが人はなく、店も修復できたことから、安治さんは、災い転じて福をなすということから「祭転福の市」というリニューアルセールを実施。
「店が壊れたと悩んでいてもしょうがないですよね。不幸中の幸いということで、話のネタにしようと思ったんです(笑)」
チラシにも事故当時の様子を載せるなど、マイナスもプラスに変えるユニークな発想で、多くの人を驚かせました。
安治さんにとって話術の先生はテレビを通してみる明石家さんまさん。関西人に似た発想で、「ごく普通の布団屋ではお客様に来ていただいても意味がないだろう」と語ります。
「商売は応用力。無理して商売を広げようとは思いませんが、自分が楽しいと思ったものを、商品や販売にも活かしたり、話題として投げかけたりしながら臨機応変に対応すること。それが200年以上も続けてこられた理由であり、脈々と受け継がれているDNAなのかもしれませんね」
株式会社 平野綿行
富山市堤町通り1-2-19
TEL:076-421-3862
●主な歴史
文化年間(1804〜1818年)に創業、打綿屋(綿屋)を営む。
明治期に現代表の安治さんの曾祖父が商売を受け継ぐ。
明治32年 二代目 平野銀次郎さんが現在の堤町通りに店を構える。
明治44年 三代目 平野安平さん誕生(平成19年没)。
昭和30年 四代目 平野安治さん誕生。
昭和34年 株式会社平野綿行を設立、現在に至る。