会報「商工とやま」平成25年8・9月号

特集 シリーズ/老舗企業に学ぶ6
富山の発展とともに、紙の卸売業として104年
 スダコー株式会社


 富山市で紙の卸売業を営み104年の歴史を誇るスダコー株式会社。相談役の須田幸明さんと、代表取締社長の高見茂さんに、同社の歴史についてお話を伺いました。

明治42年に創業


 スダコー株式会社は、明治42年、初代の須田幸次郎さんが富山市西堤町通り(現在の堤町通り)で創業したのが始まりです。幸次郎さんは現相談役の須田幸明さんの祖父です。

 「富山紙業小史(株式会社若林商店発行)によると、初代の幸次郎は明治41年にはすでに紙の販売と、和・洋式帳簿の製造に従事し、明治42年に自分の店を持ったようです。

 当時、大福帳や洋式帳簿などは紙屋が製本して手作りしていたもの。幸次郎は、若林商店さんの製本部門で約10年、奉公した後に独立したようです」と話す幸明さん。

 その後、より広い店舗を求めて富山市殿町(現在の常盤町)に移転。また、後に二代目となる幸之助さんも同じく、明治42年に誕生しています。

 「幸之助は7人兄妹の長男で、高等小学校を出た後、14歳頃から店を手伝い、幸次郎が作るノートなどの注文を取りに回っていたようです」


幸之助さんが築いた礎


 幸之助さんが商売を継いだのは、昭和3年頃。従来の小売商から、やがて文房具、紙製品・和紙の卸商へと軸足を移していきました。

 「店で作った帳面の販売だけでは商売が大きくならないため、当時の生活必需品だった高級ちり紙(京花紙)などを取り扱い、父は自転車やリアカーを引いて、県下一円を外商に回りました。やがて、父の弟の清之助、久之助、健之助も加わって、兄弟、家族が助け合って商売を大きくしていったんです」

 その原動力となったのは、何より幸次郎の妻であるウタさんの存在だったと語る幸明さん。

 「祖母のウタはしっかりもので、戦争中は息子たちが次々と出征するなか、家族と店を守りました。幸次郎は、私が生まれた昭和12年に亡くなりましたが、ウタはその後も、家計をしっかり守り、倹約に徹しました。まさに孟母でしたね」

 昭和16年には、当時発足した富山県和紙商業組合の一員となりました。幸之助さんは、さらに県外に進出。高山などへも営業に出掛けました。

 「父は人一倍バイタリティがあった人でしたね。高山線が全線開通する以前から、トラックに便乗するなどして出掛けていました。父の弟たちもそんな兄を見習い、糸魚川や直江津、高田など、県外へ出向きました。当時、紙屋が県外に行くことはあまりない時代でしたが、今でもその時のお客様とのお付き合いが続いているんですよ」


印刷業の発展とともに


 第2次大戦では、幸之助さんはじめ、兄弟は皆出征しましたが、全員が無事に帰還。戦災ですべて焼けた殿町から、今度は太田口町(現在の太田口通り)に新しい店舗兼住居を設けました。

 戦後は、洋紙が多く使われるようになり、やがて印刷会社が主な取引先に。昭和22年には株式会社須田幸商店を設立しています。

 「私が中学生だった昭和26年頃の思い出として、当時珍しかったオート三輪に乗せてもらったことを覚えています。店の自慢だったと思いますね」と幸明さんは話します。

 昭和28年には、洋紙部を設け、富山市鍛冶町へ新築移転しました。

 印刷業の発展とともに同社の紙の取扱量も増え、昭和37年には、さらに富山市清水町へ本社を新築移転。順調に業務を拡大していきました。同年、幸明さんが入社しています。

 「紙は文化のバロメーターと言われるように、日本の経済成長とともに紙の消費量も増えました。また、紙も進化し、様々な用途で使われるようになっていったんですね」

 紙の需要が増えるに連れて物流の形態も変化し、紙を板締めして運んでいた時代から、やがてパレットが登場して大型トラックで運ぶ時代へ。高見社長は入社した頃の思い出を、次のように語ります。

 「昭和40年頃は、まだフォークリフトが普及していなかった時代。デッチと呼んでいた二輪台車で運んだものです。紙はとても重く、ひとつの板締めで約270キロはありますから、トラックに乗せる作業が本当に大変でした。すべて手で持ち上げて乗せていたものでしたね」


角底製袋業に進出


 昭和38年には、スーパーなどで使われる角底製袋業(スーパーバッグ製造)に進出。新潟、東北、関東圏などへも、幸之助さんは自ら車を運転して営業に出掛けました。

 「当時、父は50歳を過ぎていましたが、新事業を興し、自ら売りに行っていました。いま振り返っても、父の商売に徹した気構えは、本当に大したものだったと思いますね」

 しかし、昭和50年頃には、レジ袋が登場。紙製品に比べて大量生産でき、水にも強いレジ袋が普及していきました。昭和55年には製袋業から撤退することに。それは、幸之助さんが亡くなった年であり、撤退は幸之助さんの遺言でもありました。


八日町の流通団地へ


 昭和56年には現在の富山市八日町の流通団地へ移転。広い倉庫を備えた新社屋でのスタートとなりました。新社長となった幸明さんは、その後も順調に業績を伸ばし、平成2年の創業80周年を機に、社名をスダコー株式会社に変更しました。

 「スダコーの歴史を振り返るときに、やはり、父の存在が一番大きいですね。創業から成長に至る一番厳しい時期を切り開いていった人です。また、父が亡くなった後も、高見社長をはじめ、役員のサポートがあったからこそ、未熟ながら、私もここまでくることができました」

 高見社長にとっても、幸之助さんは父のような存在でした。

 「私は母子家庭で父がいませんでしたから、結婚式でも親代わりになってくれました。新入社員時代も、よく飲みに連れて行ってもらったり、話をよく聞いてくれる人でしたね」


医薬品パッケージ用紙の躍進


 リーマンショックや東日本大震災、またIT化によりペーパレスが進むなかで、商業印刷用の紙の需要は減少傾向に。一方で医薬品製造が盛んな富山では、医薬品パッケージの紙の需要が伸びています。現在の同社の取扱いの約5割は、医薬品パッケージ用の用紙だそうです。

 「今後、需要増が見込める富山ならではの分野ですね。しかし、医薬品用の紙には、世界基準の厳しい品質管理と、コスト削減の両面が求められています。当社でも、紙に夾雑物が入らないよう、品質管理には細心の注意を払っています」


信頼と感謝を後世に引き継ぐ


 一口に印刷用紙といってもその種類は実に様々。同社では多種多様な顧客の要望に即応するために、約3000種類の在庫を持ち、地場ならではの素早い対応を武器に、顧客の信頼を獲得してきました。

 「幸之助の教えとして『困難な時ほど勝機が見える』という言葉があります。また、社訓は『商道通誠』で、誠実な商売ということですね。現在の品質管理などにも通じる言葉かもしれません」と話す幸明さん。

 平成17年から社長を務める高見社長は、現在も営業の第一線で活躍。何よりお客様への感謝と語ります。

 「100年を超えることができたのはお客様があってこそ。私自身、いつも元気に、お客様や社員に接することをモットーにしながら、これからもお役に立つ企業でありたいと考えています。信頼と感謝の気持を大切に守り、後世に伝えていきたい」と話します。

 「情報媒体は様々に変化しても、紙は私たちの暮らしになくてはならないもの。世の中の変化に合わせて紙も進化しながら、これからも必要とされていく」と語るお二人。

 富山ならではの強みを活かし、新しい時代の勝機を掴みながら、スダコー株式会社は歩み続けています。


スダコー株式会社
富山市八日町247-19
TEL:076-429-7000

●主な歴史
 明治42年 初代 須田幸次郎さんが製本業を創業。
 昭和3年頃 二代目 須田幸之助さんが継承。
 昭和22年 株式会社須田幸商店設立。
 昭和37年 富山市清水町へ新築移転。
 昭和56年 富山市八日町へ移転。
 平成2年 スダコー株式会社に社名変更。