平成14年4月号

民衆を愛した佐々成政
〜真実だった、厳冬の北アルプス"さらさら越え"〜

作家 遠藤和子 氏


■成政との出会い

 私が佐々成政の名前を知ったのは小学3年生のとき、近くの図書館で聞いたあの「早百合伝説」(注参照)でした。それから、カルタに「佐々成政、蓑着て越えた高い立山銀の雪」(「さらさら越え伝説」)があり、女学生の頃、老人から「鍬崎山には佐々成政の埋蔵金が埋まっているのだよ」と聞かされたこともありました。このときまでは、佐々成政は「悪逆非道の暴君で、真冬に立山連峰を越える猪突猛進の武将。しかも埋蔵金まで埋めている」といった程度しか思っていませんでした。

 しかし伝説というものを調べて、世代を越えて越中の先人たちは、佐々成政の伝説に何を願い、何を訴えているのかを知りたいと思うようになりました。好奇心から佐々成政の研究が始まったのです。

 しかし、成政に関する資料は加賀の前田氏によって抹消され、また存在していても歪められていました。「なぜ、前田氏は佐々成政に関する資料を意図的に抹消したのだろう?」。これが探求心を掻き立てました。「なぜ」「どうして」という好奇心や疑問が「未来を開く扉である」ということを佐々成政研究を通して知らされたわけです。

 織田・豊臣・徳川などの資料や越後や熊本の資料から一つずつすくい上げるようにして研究を進め、12年間ほどかけ、ようやく佐々成政の生涯がわかってきました。それを『佐々成政』として著し、世に問うたわけです。



■応仁の乱は越中の武将たちが火をつけた

 佐々成政が来る前の越中はどのような国であったのでしょうか。越中の国は、名目的には、室町幕府の三管領の一人である畠山氏によって治められていましたが、実際は椎名氏や神保氏といった守護代が治めていました。

 畠山氏の二代、持国は子どもに恵まれなかったため、甥の政長を養子にしましたが、晩年になって実子、義就が生まれました。親とすればやはり自分の子どもに跡を継がせたい。持国が亡くなったあと、この義就が三代目になるわけですが、これに反抗したのが政長を支えてきた越中の守護代たちです。彼らは政長に三代目を継がせたかったため、ここに家督争いが起こりました。そして、応仁元年(1467)、京都に行き、幕府内の勢力者・細川勝元を頼り、義就派に反旗を翻しました。義就派もこれに対抗して山名宗全に頼りました。これが、応仁の乱の始まりです。これに尾張の斯波氏や将軍家内紛などが加わり11年間にわたって、都全体が焼け野原と化しました。乱世の戦国時代を呼び込んだ応仁の乱は、越中の守護代たちが火をつけたといっても過言ではないのです。



■越後勢の侵略

 こうして、戦国の世になると、一向宗が暴徒化。特に加賀の一向宗が強く、越中では南砺地方のお寺を中心にして一向衆徒らが火の手を挙げました。この対応に関して、越中の守護代たちはあてにならないと思った守護の畠山氏は、越後の長尾氏に加勢を求めました。やってきたのが長尾能景(上杉謙信の祖父)ですが、彼は頼成の森(砺波市)で一向衆徒らに倒されてしまうのです(なお、頼成の森には能景の墓があります)。

 そのあとも長尾為景、さらには為景の子、上杉謙信と、越中を二十回以上にもわたって侵略し、田畑を荒らし、家を焼き、馬や社寺の財宝を盗んだりして、民衆を大いに苦しめたのです。また、武田信玄も南から越中を脅かしたりしたので、この時代の越中は乱れに乱れ、民衆は悲惨のどん底状態にあったわけです。



■地獄の中で仏をみる

 佐々成政が越中にやってきたのは、このような状況のときでした。

 天正6年(1578)、上杉謙信が亡くなり、上杉家の家督争いが起きたのを見た織田信長は、越中の武将たちを助けるため、天正8年9月(1580)、今でいうと11月のはじめに佐々成政を応援によこしたのです。成政は織田家の中でも柴田勝家や丹羽長秀、佐久間信盛などとともに「八角将」という重臣の地位にありました(このとき、前田利家はこれより一ランク下の「九爪将」の地位にとどまっています)。

 成政が見たものは、秋雨のため氾濫した常願寺川や神通川と、泥海と化した富山の城下町、そして悲惨な民衆の姿でした。そこで、成政は、いたち川を改修したり、常願寺川に佐々堤を築いたり、神通川に土手を設けたりして治水事業を行うとともに、越後勢を排除するなど、自分の体をかけて、民衆を守ったのです。越中の民衆にすれば、まさに地獄の中で仏を見た思いだったのです。

 そして、翌天正9年(1581)、成政は正式に越中の国主となりました。信長の「天下を統一して平和な世を築きたい」(安楽浄土)という願いに共鳴していた成政は「民衆が安住できるように」という気持ちを込め、富山城を「安住城」と名づけ、それが現在も「安住町」という地名として残っています。



■秀吉・利家との対立

 本能寺の変で信長がこの世を去ると、ポスト信長の座を柴田勝家と豊臣秀吉が争い、勝家を破った秀吉がグングンのし上がってきたのです。これを快く思わなかった信長の次男の信雄(のぶかつ)が、徳川家康と組んで秀吉に対して兵を挙げたのが小牧・長久手の戦いです。

 このとき、越中の成政は前田利家とともに一旦は信雄の要請を断り、秀吉方につきますが、行動は起しません。成政はこの後も豊臣方につくべきか、徳川方につくべきかで悩みますが、悩んだ挙句、織田家の御恩に報いるため、信雄のいる織田・徳川方に加担することを決めます。

 しかし、このことが加賀の利家にばれ、天正12年(1584)に能登の末森城で利家と衝突します(末森城の戦い)。その戦いの最中に、信雄が秀吉と単独講和してしまうのです。ビックリしたのは成政。緊急に、浜松の家康と対応策を相談するため、厳冬の北アルプスを越えるという大行動(いわゆる「さらさら越え」)を起したのです。



■厳冬期の北アルプス越えは無謀?

 成政が天正12年(1584)の暮れ、今の暦でいうと1月2日に富山城を出発して、立山連峰・後立山連峰を越え、そして、浜松の徳川家康に会いにいったことは、家康の重臣が著した「家忠日記」にも「12月25日、越中の佐々内蔵助、浜松へ越し侯」と書かれています。「さすがは豪勇な佐々成政よ」「奇跡だ、神業だというほかはない」と驚き絶賛した者もあれば、「寒の時期にあの北アルプスを越えるとは、なんと無謀な猪突猛進の行為だ」と嘲笑う人もいました。なぜなら、厳冬期に八山八谷の北アルプスは、妖怪が棲んでいるとまで言われ、恐れられていたのです。何よりも積雪が18〜20mもあり、雪崩も多く、また、零下20〜30度と極寒の山岳地域です。「伝説」と言われるのも無理はないのです。



■芦峅寺などの民衆が成政を手助け

 いろんな資料を調べてみると、雪のある時期は、前田とも上杉とも休戦状態になっていることがわかります。成政は留守にする期間を20日間と見積っています。すなわち、利家が成政の留守を察知するのに5週間、利家の耳に入り富山城攻めを決定するまでに1週問、陣ぶれをするのに5日間、そして富山に到着するまで3日間のあわせて20日間と踏んだわけです。

 成政一行が辿ったといわれる常願寺川〜芦峅寺〜弥陀ヶ原〜松尾峠〜湯川谷から、ザラ峠を越え、五色が原〜針ノ木峠〜大町にいたる道は「塩の道」の最短距離です、能登の塩などは通常、糸魚川から信州に運んでいましたが、積雪のない時には、この立山越えの道を利用していたと言われています。このようなことから成政が真冬にこの道を通ったことは違いない。成政には、芦峅寺や岩峅寺の人々、炭焼き、伐採、猟師などの自然に精通し、冬山の地形に通じた人々が案内役として協力したという史料も残っています。



■大町側での足跡・証言を取材

 私も取材の一環として成政が歩いた道筋を辿ってみました。そして、平小屋のご主人に、「成政は針の木峠を越えた」という話をしたら、その場に居合わせた一の越山荘のご主人とともに、「針の木峠は雪崩の巣で、カモシカさえ行かない。そのようなところは決して通らないはずだ」と話されました。「やはり伝説なのか」とがっかりしていると、「針の木峠は無理だが、七倉沢は大丈夫かもしれないね」と言われました。

 取材を通して、大町側にも佐々成政の伝説がたくさんあることがわかりました。例えば、成政が芦峅寺の立山仲宮寺より貰い受けたオンバ像を、大出の人々に守護を頼み置いていったという伝説。成政一行が山道に迷ったとき、このオンバ像を拝んでいると、鳩が飛んできて人里まで案内してくれた。それが「鳩峰」という地名で残っていること。八郎という成政の従者が雪庇を踏み抜き、高瀬川に落ちていったことから名付けられた「八郎落し」。成政が通行したことにちなみ、名付けられた「笹平(佐々平)」などです。

 また、大町のある農家のおばあちゃんからは「私のご先祖さまが成政一行を助けたのだ」と話してくれ、近くに住む猟師からも、「大町では1月の寒の時期からカモシカ猟に出る。その頃のカモシカは銀色のやわらかい冬毛に変わり、柔らかく水はけも良いため、防寒具に最適だからだ。猟師たちも雪崩の巣である針の木峠や北葛沢は避ける。通るとしたら七倉沢だろう」と、ここでも七倉沢の名前が出てきました。

 高瀬川〜大町ルートで、七倉沢が小さい沢であること、針の木峠の近くにあること、鳩峰や八郎落し、佐々平もこの周辺に集中していることなどから、私はここで初めて、成政一行が高瀬川の方へ行ったことがわかったのです。また、「天候と雪崩の心配さえなければ、潅木がすべて雪の下に埋まり、動物も冬眠する冬山の方がむしろ安全です」と話してくれました。

 だから、成政も当初は往復20日間(片道10日間)で計画を立てていましたが、結局片道だけで1ヵ月もかかったのは、古文書で指摘されているように、天侯の日和を見ながら行動したからだと思います。



■民衆の安住を第一に考えた成政

 これで、私は成政が厳冬の北アルプスを越えたことを確信しました。しかし、成政は、北アルプスを越えたが、浜松城の家康を動かすことはできず、大変落胆し、無念の思いで越中に帰ってきたわけです。つまり、成政が浜松に着いたころには、家康は次男の於義丸(のちの結城秀康)を秀吉の養子として差し出してしまっていたのです。

 では、成政の厳冬の北アルプス"さらさら越え"は無駄だったのでしょうか。私はそうは思いません。なぜなら、さらさら越えをして、浜松にやってきて、疲弊した尾張の国内の実態を見聞したのです。越中の民衆の安住を願っている成政には、このまま秀吉に抵抗すれば、越中の民衆は尾張のように疲弊してしまう。やはり降伏という選択しかない、ということを悟ったのだろうと思います。帰国後、成政の家臣たちは「どうして降伏するのですか。頑張りましょう」と成政を説得しますが、成政はこれをなだめて秀吉に降伏し、入国以来五年の越中の国を去ったのです。

 越中の民衆にすれば、「成政殿は自分たちを救うために、敢えて降伏してくれた。また、治水事業など、いろいろ善政を行ってくださった。いずれ戻って来られる。いや、戻ってきてほしい」という強い願いを持ったことは想像できます。それが埋蔵金伝説という形になったとも考えられます。



■早百合伝説は前田氏のでっち上げ

 このように、成政が大変慕われていることに困ったのは、そのあと越中を支配した前田氏(加賀前田氏の分家)。前田氏は、成政の評判を落すため、いろいろと策を用いました。なかでもあの早百合伝説が有名です。以来400年にもわたって悪逆非道の武将というレッテルが成政に貼られてきたのです。成政の家臣が著した「武功夜話」には「前田利家は成政に大変御恩になった。流浪しているときには成政にかくまってもらい、精神的にも経済的にも助けてもらった。織田家に再仕官するときには、戦さで佐々勢に加えてやるなどして助けてやった。これだけ御恩を受けているにも拘わらず、利家は成政を裏切った」と重臣たちが嘆いていたことが書かれています。



■越中の民衆は悲劇の共有者

 このように、佐々成政は悲劇の武将なのです。私は越中の民衆が成政を慕っている理由として、初めは「善政をひいたから」「悲劇の武将だから」だと思っていましたが、調べているうちに、越中の民衆は、成政の悲劇と同じように自分たちも悲劇の共有者であると感じているに違いないと思うようになったのです。成政が去って以来、越中の国は約300年間、加賀藩に支配されました。これを越中の民衆は屈辱に感じていたと思われる資料がいくつもあるのです。



■佐々成政は私たちの中で生き続けています

 富山を去った成政は2年後の天正15年(1587)、秀吉の朝鮮出兵を支援するため肥後(熊本)の国主となり、様々な改革を断行します。これが縁で富山の人は熊本に親しみを感じています。

 成政は、いたち川や常願寺川、神通川の改修など、治水事業に命をかけました。置県以来の富山県は治水事業に多くを費やしていますが、これも何か成政とのつながりを感じさせてくれます。

 成政が亡くなって今年で415年経ちますが、私たちの中には成政が生き続けているような気がします。戦国の乱れた時代に越中にやってきて、「安住」という自分の政治理念を城につけるまでして、民衆のことを大切に思った成政。現在NHKの大河ドラマ「利家とまつ」で大活躍している佐々成政を見て、私は大変うれしく思います。



■「早百合伝説」とは…

 天正12年(1584)冬、佐々成政はひそかに富山城を出て厳冬の北アルプスを越え、浜松城に徳川家康をたずね、豊臣秀吉打倒を相談した。帰国した成政は、留守中、愛妾・早百合が成政の近習の侍と密通したとの噂を聞いて激怒。早百合の黒髪をつかんで引きずり回り、神通川磯部の堤にあった榎の枝に逆さ吊りにして、めった斬りの惨刑に処した。早百合は断末魔の苦しい声で「私は無実です。私の恨みで立山に黒百合が咲いたら佐々は滅びますぞ」とのろって息絶えたという言い伝え。この木の下で「サユリ、サユリ」と呼ぶと早百合亡霊の火玉が出現すると恐れられたという。



遠藤和子氏
プロフィール
えんどう・かずこ。作家。富山市生まれ。富山に埋もれている歴史的テーマを掘り起こし、光をあてる仕事を続けている。著書『佐々成政』(サイマル出版会)『物語・佐々成政』(北日本新聞社)は、佐々成政の歴史的評価を一変させた。このほか『松村謙三』『富山の薬売り』『富山のセールスマンシップ』等がある。富山県文化財保護審議会委員。日本ペンクラブ会員。日本文芸家協会会員。

本稿は、去る3月1日、当所議員クラブほかが開催した講演会における講師の講話を編集部がとりまとめたもので、文責は編集部にあります。


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