工部大学校。現在の東京・虎ノ門あたりにあった

工部大学校

現在の東京大学工学部の前身の一つ

1873年、当時の工部省が工業人材を養成するために、「工学寮工学校」として設立され、4年後に、「工部大学校」と改称されました。
設立時に、イギリスのグラスゴー大学から、ヘンリー・ダイアーを校長として招きました。当時、25歳でした。
ダイアーは、8人のイギリス人教師団を編成し、教育方針からカリキュラムまですべてを取りしきりました。
6年制で、全寮制。教科書は英語で書かれ、講義も英語で行われました。
譲吉たち1期生は、32人。制服、制帽、靴などは、すべて官費。1日に1食は洋食で、トイレも洋式でした。
1886年には、「帝国大学工科大学」となります。
この間の教育成果はめざましいものがあったとされ、イギリスの工業教育にも影響を及ぼしたと伝えられています。

参考:高峰譲吉 生誕150年記念展(発行:高峰譲吉博士研究会)

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エピソード

02

青春編

明治時代(1870-1883)

譲吉29歳まで

大阪舎密せいみ学校で学んでいた「舎密(せいみ)」とは、「化学」のことです。
学校で化学実験の基礎を教わり、化学のおもしろさに夢中になった私は、応用化学の道を進もうと決意しました。

1872年、18歳の私は、工部省の官費修技生となり、東京で応用化学を専攻します。学んでいた工学寮は、「工部大学校」となり、私は応用化学科を首席で卒業しました。1879年、25歳の時です。

翌年、工部省から、3年間のイギリス留学を命じられ、産業革命の中心地であるグラスゴーのアンダーソン・カレッジなどで学びながら実際に働きました。
ミルズ先生からは、発酵の化学原理を教わりました。

勉学や実習に励みましたが、イギリスの光景が驚きの連続でした。「いやはや鉄だらけだ」と日本への手紙に書いたほどです。グラスゴーの数千本の煙突と煙。鉄道にロンドンの地下鉄、井戸ではなく水道。あらゆるものが学びでした。

1883年、帰国した私は、農商務省に入省し、工務局勧工課で日本酒・藍・和紙など日本の伝統産業の工業化にたずさわることになります。