譲吉が父に送った入籍届の下書き。
父精一から金沢市長に届け出ている。

譲吉とキャロライン

1884年、ニューオーリンズに1年間滞在していた譲吉は、下宿先のヒッチ家の娘、キャロラインと婚約します。
1887年、益田孝と欧米へ出張した時に、二人は3年ぶりに再会し、結婚しました。当時、国際結婚はめずらしいことでした。
そして、二人は日本へ。東京人造肥料会社を設立し、日本での暮らしが始まりました。会社のある深川釜屋堀の近くの日本家屋に住み、ことばや食べ物などアメリカとはまるで違う環境に、キャロラインは、なじめなかったといいます。
その間、1888年に長男襄吉じょうきち、1889年に次男エーベン・たかしが誕生します。
長男が誕生した年、譲吉は、官職を辞し、こうじ菌を用いた発酵の研究を始めました。

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1900年頃の深川・釜屋堀
東京人造肥料会社(現・日産化学工業株式会社)

東京人造肥料会社の誕生

渋沢栄一や益田孝が賛同して、1887年、東京人造肥料会社が設立されました。
資本金は、25万円(現在の約37億5千万円)。深川釜屋堀に土地を購入し、工場用地とします。現在の江東区大島1丁目のあたりになります。

植物の成長に欠かせない肥料の3要素「窒素、リン酸、カリウム」のひとつ、リン酸肥料である「過リン酸石灰」を製造していました。
譲吉は、技術長として、製造機械や原鉱石買い付けに海外へ出張するなど尽力しました。
現在、工場跡は、釜屋堀公園となり、「化学肥料発祥の地」として記念碑が立てられています。

工場跡にある「尊農」と刻まれた記念碑。
昭和18年に建立され、化学肥料製造の由来、 譲吉や渋沢栄一、益田孝の名前も刻まれている

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エピソード

04

起業と挙式編

明治時代(1886-1888)

譲吉34歳まで

万国博覧会が終了して帰国した私は、1886年、農商務省特許局次長となり、初代局長である高橋是清たかはしこれきよ局長とともに特許・商標制度の確立に尽力しました。

また、アメリカで購入したリン鉱石の件で、私は、国立銀行を設立した渋沢栄一さん、三井財閥の益田孝ますだたかしさんに会い、リン鉱石と人造肥料の話をしました。
会社を設立するための出資をお願いしたところ、二人は快く受けてくれました。こうして、1887年2月、日本最初の人造肥料会社「東京人造肥料会社」が設立したのです。

そして、3月、肥料製造機械などの購入と調査・視察のため、益田さんとともにヨーロッパへ出発しました。
仕事を済ませた後、私は、ニューオーリンズに立ち寄り、キャロラインと再会しました。私たちは、結婚式を挙げ、ヨーロッパやアメリカの工業視察と新婚旅行を兼ねて世界各地を訪問し、日本に帰国しました。

東京人造肥料会社の工場は、東京深川の釜屋堀かまやぼりに建設し、1888年よりリン酸石灰さんせっかいの製造・販売を中心とした事業を始めました。