産業都市ピオリアと不運

イリノイ州ピオリアにある「ウイスキー・トラスト」からの依頼を受けて、アメリカへ渡った譲吉ですが、サンフランシスコへの船上で肝臓病を発病します。
シカゴの病院に入院し、回復した譲吉は、ピオリアに向かいました。当時のピオリアは、アメリカのアルコール生産の中心地で、シカゴをしのぐ大産業都市でした。醸造業、モルト生産業、家畜処理業などの工業が集結していました。
譲吉は製造法を確立し、工部大学校の後輩である清水鐵吉をアメリカに呼び、事業は順調に進展していました。
しかし、モルト業者の反発が起き、工場の火災事故が発生します。
譲吉は、肝臓病を再発。危篤となりますが、ピオリアには外科手術のできる医師がいません。キャロラインは、自宅の裏を走る線路に立ち、シカゴ行きの汽車を急停止させ、譲吉を病院へ運びました。
キャロラインのこの行動によって、譲吉は一命を取りとめました。

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エピソード

05

麹とウイスキー編

明治時代(1889-1893)

譲吉39歳まで

人造肥料会社の事業にたずさわる一方で、私には以前から取り組んでいる研究テーマがありました。それは、「日本の伝統的発酵技術の研究」です。
私設の製薬所で研究を重ね、こうじ菌を利用してアルコールを作る方法を発見し、「(麹による)酒精製造法」の特許をイギリスで出願し、成立しました。

これは、従来のモルト(麦芽ばくが)の代わりに麹を使用し、麹菌の持つ強い酵素「ヂアスターゼ」を活用して、醸造するという方法です。
1889年にはアメリカでも特許が成立し、アメリカ最大手のウイスキー会社「ウイスキー・トラスト社」より、現地にて技術指導をしてほしいと依頼されます。

軌道に乗り始めた人造肥料会社も気がかりでしたが、私は、アメリカ行きを決意し、家族と杜氏とじの藤木幸助を連れて、イリノイ州ピオリアに向かいました。
ところが、現地のモルト製造業者たちは、自分たちの職を失う危機感から猛反発。1893年の春、実験棟が焼失してしまいます。不審火によるものでした。

さらに、持病の肝臓疾患で入院するなど悪いことが重なり、ウイスキー製造の前途は真っ暗でした。