譲吉の夢を支えた清水しみず鐵吉てつきち

清水鐵吉は、東京大学工業化学科を卒業後、譲吉と同じく農商務省に勤務しました。
1892年、清水は、譲吉の助手を務めるため、アメリカに渡ります。かねてより助手を求めていた譲吉が、清水をアメリカに呼び寄せたと言われています。清水は、28歳でした。
その頃、譲吉は、麹菌によるウイスキーの製造を研究開発しており、清水も杜氏とうじの藤木幸助に協力し、譲吉を助けました。
麹菌によるウイスキー製造構想が挫折した後は、タカヂアスターゼを医薬品としてとして開発する研究を担当しました。
タカヂアスターゼは、1895年、パーク・デイヴィス社から発売され、世界的なヒット商品となりますが、清水は、肺結核を患い、発売の翌年、34歳の若さで亡くなりました。
藤木幸助がその遺骨を抱いて日本に帰国しています。

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エピソード

06

タカヂアスターゼの誕生編

明治時代(1894-1896)

譲吉42歳まで

ウイスキー事業は断念せざるを得ませんでしたが、こうじ菌の可能性がなくなったわけではありません。
私は、発想を転換すればいいと考え、麹菌の持つ強力な酵素「ジアスターゼ」を別のかたちで活用できないかと探りました。

ジアスターゼは、胃の中でも作用し、でんぷんを消化する働きがあることを突き止め、胃腸薬への活用を考えました。これが、「タカヂアスターゼ」の誕生です。工場が焼けたのと同じ1893年のことです。

タカヂアスターゼは、麦を製粉した時に出る「ふすま」を活用して麹菌を培養するため、低コストで効率的に生産ができるなどのメリットもありました。

当時世界最大の製薬会社パーク・デイヴィス社の経営者の一人、ジョージ・デイヴィス氏が、このタカヂアスターゼにいち早く注目してくれました。
私は、パーク・デイヴィス社と契約を交わし、1895年には粉末胃腸薬を主体とし、ほかに液剤、カプセルも含めて発売されました。幼児から大人まで使える薬ということでたちまち人気商品となりました。