塩 原 又 策 、タカヂアスターゼと出会う
塩原又策は、横浜の外国人を対象とした絹織物の商人でした。
アメリカを訪問していた塩原の友人、西村庄太郎は、たまたま「タカヂアスターゼ」の存在と薬効についての情報を知り、塩原に伝えました。
タカヂアスターゼの可能性を信じた塩原、西村ら3人は、譲吉に面会を申し込み、日本での委託販売を申し入れます。
譲吉は、当時48歳。無名の若者の申し入れを承諾しました。
塩原は、横浜から東京日本橋に進出。「三共商店」を設立し、販売網を着実に広げ、実績をあげました。
1902年には、帰国した譲吉に会い、アドレナリンを含めた日本での独占販売権を獲得します。
三共商店は、譲吉をはじめ、渋沢栄一、益田孝らの出資で、1913年に「三共株式会社」となり、譲吉は初代社長に就任しました。
「三共商店」は、現在、日本を代表する製薬企業「第一三共株式会社」となっています。