化学研究の必要性を詳しく述べた高峰譲吉博士の提案書

譲吉の思いはつながっていく

譲吉が提唱して創立した「理化学研究所」は、日本の科学技術の原点となり、多数のノーベル賞受賞者を生み、2017年には創立100周年を迎えました。

主な出身者

  • ● 鈴木梅太郎 ビタミンA、ビタミンB1の発見(日本十大発明家)
  • ● 池田 菊苗 グルタミン酸ナトリウム(うま味成分)の発見(日本十大発明家)
  • ● 本多光太郎 KS鋼、新KS鋼(日本十大発明家)
  • ● 湯川 秀樹 中間子の存在の予想(ノーベル賞)
  • ● 朝永振一郎 量子電気力学分野での基礎的研究(ノーベル賞)

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世紀のプロジェクト
「黒部ダム」建設へ

高岡新報に譲吉の寄稿文が掲載されましたが、しかし、第一次世界大戦後の不況の影響、そして、譲吉の逝去ということもあり、アルミニウムの製造は中断し、黒部川水域電源開発の主体は、譲吉の意志と共に日本電力(現在の関西電力)に引き継がれました。
戦後、関西地方は深刻な電力不足にみまわれ、関西電力は、黒部ダム建設を決断します。
1956年(昭和31年)着工、社長太田垣士郎指揮の下、171人の殉職者を出し7年の歳月をかけて、1961年1月に送電を開始し、1963年(昭和38年)に完成しました。
譲吉の先見の明と、日本人の技術力がなしえた世紀のプロジェクトは、多くの人々が訪れる一大観光地となっています。

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エピソード

11

日本の未来へ編

明治時代(1904) - 大正時代(1922)

譲吉67歳まで

1913年、私は、「国民的化学研究所」設立を提唱しました。
化学研究がいかに必要か、また有効であるかを具体的に述べ、訴えました。

このアイディアは渋沢栄一さん、櫻井錠二さくらいじょうじさんたちをはじめとする政治、官僚、財界の皆さんに賛同をいただき、3年余りの準備期間を経て、1917年に創立されました。日本の未来を考えた、私の提案でした。

もうひとつ、未来のために提唱したこと。それは、富山県にアルミニウム産業を起こすことです。

1918年(大正7年)5月、私は、地元の新聞・高岡新報に3回にわたり寄稿きこうしました。急激な河川の流れをせき止めて水力発電を実施すること、その安価な電力を使ってアルミ産業を起こし、それによって地元高岡の衰退する銅器の鋳物いもの、加工業に代替させること、原料や製品の輸出入は北陸の玄関口、伏木ふしき港を活用することなど、私の構想を語りました。

何十年も先の未来に、構想が現実になればいいとの思いを込めていました。