松楓殿とは

関わった人たち

高岡彫刻漆器と松楓殿家具制作担当
村上むらかみ九郎作くろさく

(1867年〜1919年)

1867年、小松で代々彫刻業を生業とする勝山屋村上善太郎の長男として生まれました。父から厳しく彫技の指導を受けていましたが、16才で父を亡くし家督を継ぐこととなりました。
家族と共に金沢に転居した村上は、農商務省から石川県へ派遣されていた巡回教師納富介次郎と出会いました。納富は、「工芸・工業教育の振興」を掲げ、1898年創立の金沢工業学校を皮切りに、高岡、高松、佐賀に四つの工芸・工業高校を設立し、「明治期デザインの先駆者」と呼ばれています。
村上は、納富の指導の元、1889年22才で第四回パリ万博にて銀賞を受賞、1890年第三回内国勧業博覧会では妙技三等賞を受賞しています。その頃から彫技の才能が注目されるようになり、同年、納富校長の招きで石川県工業学校(旧金沢工業学校)彫刻科教師となりました。在勤中の1893年、シカゴ・コロンブス万博に出品して渡米、欧米のデザイン潮流を直接見聞する絶好の機会となりました。この経験は、村上の伝統に捉われない自由奔放な作風に影響を与えています。

高岡漆器(彫刻塗)の産業化への取り組み

村上は、1894年、納富が高岡に設立した富山県工芸学校(現富山県立高岡工芸高校)に招かれ、木材彫刻科教諭として赴任しました。高岡では、純日本的なデザインの研究に取り組み、高岡漆器の産業化のために心血を注ぎました。
1897年同校で制作した、『双鯛彫刻漆器大盆』は納富校長が図案を担当し、校長心得の村上が彫刻したものです。このユーモラスなデザインの盆は、高岡漆器(彫刻塗)の代表作として富山県立高岡工芸高校附属青井記念館美術館にオリジナルとして今も大切に保存されています。